第七回 JR上野芝駅から地下鉄新金岡駅まで 前編

第七回 JR上野芝駅から地下鉄新金岡駅まで 前編

竹内街道について語る冒頭に、まだ難波(なにわ)の港から飛鳥(あすか)の都に通ずる街道がなかった時代に、隋帝国から使者の来朝を受けたことで飛鳥政府が大恥かいたことから、国家事業としてこの街道が整備されることになった由来を申し上げた。
但しこの街道周辺の「南河内」が歴史の舞台に登場するのは、往来が始まる飛鳥時代ではなく、その前の古墳時代である。大王(おうきみ)、今で言う日本国天皇が、上町台地や大阪平野の南部(往時、上町台地の東側は生駒山麓まで広大な河内湖が拡がっていた)を本拠地として、中国大陸や朝鮮半島と交流しながら、宗教的カリスマの時代を脱皮し、鉄製武器を携えた騎馬軍団を従え、文明の優勢を誇示するのでも神秘力を用いるのでもなく、ただ「武力」で人民を支配した時代である。それまでの大和の皇統を「三輪王朝」と呼び、次の時代の大阪平野の皇統を「河内王朝」と呼んで、王朝の交替を主張する歴史学者がいる。
申し上げておくが、竹内街道周辺の歴史散策をする限り、登場する時代は古墳時代から平安時代までで、古代が中心となるのは如何ともし難く、それをご了承願いたい。(上掲画像は堺市博物館の中の展示。館内は撮影が許可されている。)


王朝交替説を主張する人にとっては、建国伝説に始まる三輪王朝とは本拠地のみならず、河内王朝がイメージの全く違う王朝だったのである。御陵の副葬品を見ても、鏡や装飾品ではなく、馬具や武器が副葬される時代になったのだ。我が国は建国以来二千有余年、万世一系の皇統と仰いでいるが、それを主張する為に日本古来の歴史書「古事記」「日本書紀」が、一方では河内王朝が、応神天皇の生母、神功皇后が起こした戦争によって三輪王朝から政権を奪ったと正直に告白しながら、他方では応神が三輪王朝景行天皇の皇子、伝説の英雄、ヤマトタケルの孫だったから両王朝は連続した皇統であると説明するのは、矛盾であると私は言いたい。
(画像は上野芝駅北西側にある履中天皇陵)


 定説では河内王朝の始祖は第15代、応神天皇こと、ホムタ大王であり、御陵は近鉄古市駅付近にある巨大な前方後円墳が比定される。この御陵の守護を命じられた源氏の先祖によって応神は後世、神と崇められ、源氏の守護神、八幡神(八幡大菩薩)となった。因みに私は王朝の始祖を応神とする説には異論を唱える。何故応神父親の仲哀天皇が始祖ではないのか、という疑問だ。誰も仲哀という人物には触れようともしない。そこに日本人には不都合な真実が隠されているような気さえする。それは又別の機会に。
応神の後継者が次男の仁徳天皇、仁徳天皇後継者は長男の履中(りちゅう)天皇、その後継者は仁徳三男の反正(はんぜい)天皇、その次は仁徳四男允恭天皇と王朝は続き、第25代の武烈天皇までの時代を河内王朝の時代と呼ぶのである。(画像は上野芝駅北東側のイタスケ古墳)


 6月20日、この日は私一人で竹内街道周辺の歴史散策を続け、一日百舌鳥(もず)古墳群巡りをしようと決めていた。天王寺から阪和線で上野芝駅に向かい、先ずは駅の北側のすぐ前にある「履中天皇陵」から見学を開始した。履中天皇は、かの有名な仁徳天皇の長男であって、御位に即いたその日の夜、命からがら皇居から家来と僅か二人で逃げ出さなければならなかった。とても興味深いエピソードだが、これに触れるのも別の機会に譲るとしよう。(画像はイタスケ古墳北側の御廟山古墳)


 履中天皇陵を見た後、阪和線の東側に回り、イタスケ古墳、御廟山古墳を見ていく。それから更に北に歩いて百舌鳥駅に出ると駅の西側の大仙公園の中央部へと進んで行く。公園の中に造られた花壇が美しく咲いていた。目的は堺市博物館である。古代史好きな人間にはたまらない展示ばかりである。墳墓の中から発見されたもの、またそれを往時の時代の姿に戻して再現されたレプリカの数々。古墳時代の人々の暮らしを想像させ、楽しませるロマン溢れる歴史博物館である。
(画像は堺市博物館の外観)