第三回 谷町四丁目から鶴橋まで 後編

(前書)古代の朝鮮南部にあった百済(くだら ペクチエ)と新羅(しらぎ シルラ)の人々とは、服装では百済をまね、神を祀る作法では新羅に学んだように、日本人は均しく交際、交流したのだった。だが飛鳥時代に入って百済新羅間の争いが激しくなると,我が国は百済の味方をするようになった。ところが百済は同じ満州扶余(プヨ)族の高句麗(こうくり コグリョ)と共に滅ぶことになる。我が国を天皇制の律令国家に導いた天智天皇は、国の総力を挙げて百済に援軍を送るも、唐と新羅に大敗した後は、朝鮮半島を統一した新羅とは断交し、百済の亡命者を受け入れ、日本各地に住まわせた。
大阪府内で亡命百済人が住み着いた地の一つが、今は地名が消えた生野区と東成区にまたがる猪飼野(いかいの)である。なぜ猪飼野だったのか、往時、そこが新開地だったからだと思うのだ。縄文時代には上町台地の東から東大阪一帯にかけて巨大な内海が広がっていた。それが時代を下るに従い、徐々に小さくなって湖となった。奈良県から流れる大和川は、柏原付近で幾つかの支流に分かれ、それぞれ南から湖に注いだ。

  一番西の支流が後の平野川である。弥生時代、後に平野川と言われるこの支流の河口にあった古代の「津」こと湊は桑津である。時代が下って5世紀(古墳時代)の仁徳期になると、川が運ぶ土砂が湖を縮小させ、河口は桃谷駅辺りまで北上した。そこに出来た新しい湊が猪甘(いかい)津である。猪甘津付近で川をまたぐ橋が「小橋」とも「鶴の橋」とも言われ、記録に見える日本最古の橋となった。上町台地東の湖岸に土砂が堆積し、百済が滅亡した7世紀には猪飼野と言われる新しい陸地となった。上町台地と猪飼野の間を平野川が北に向かって蛇行して流れ、河口は玉津まで北上した。

  20世紀に入ると、済州島や朝鮮半島から出稼ぎ労働者として渡って来た人々もこの猪飼野に棲むことになる。一千四百年も離れた時点の、二つの渡来の人々に定住地を与えた政策は、いずれも異国の人々に良かれと思ってのものだったとは到底思えない。この地は低湿地故に長く日本人が棲み嫌う処だった事に加え、平野川が何度も氾濫し、その度に住む人から財を奪って来たからだ。今日では平野川は新平野川として、猪飼野を東西に分かつようにまっすぐ南北に掘られた運河に付け替えられ、氾濫の畏れも無くなった。また猪飼野の中心にある、最近ようやく「コリアタウン」と自称できるに至った御幸通商店街に、今日韓流ブームに魅了された日本の若い人たちが、大勢観光目的で集まって来るのを見るにつけ、その昔を知る人には隔世の感と言えるのではないだろうか。

第三回 谷町四丁目から鶴橋まで 後編

 12月8日、午前11時半。天候は良いものの、寒波が上空から重くのし掛かって、陽が当たっても暖かみは感じられない。ただ風が無いのが幸いだ。難波宮跡を後にして中央通り南側の歩道を東へ進み、阪神高速森ノ宮入路で右折し、車の北往き一方通行を逆方向に歩く。緩やかな下り坂を進んで信号の処で振り返ると「越中井」と彫られた石碑が目についた。ここは太閤秀吉の時代、越中守細川忠興(ただおき)の屋敷の台所があった処で、今は井戸だけが恨めしい昔の繰り言でも言いたげに寂しく残されている。
この屋敷に棲んでいたのは忠興の妻、天主(=カトリック)教徒だったガラシアこと明智光秀の娘、玉子である。多くの武将達が朝鮮征伐で領国を留守にする中、1598年、天下人秀吉が突然死亡した。2年後には西日本の有力大名、毛利家や島津家を味方に引き入れた石田三成と、東日本の有力大名、徳川家康との間で「関ヶ原の戦い」が勃発する。両軍決戦の少し前、動きを怪しまれた上杉景勝の討伐に、夫忠興が大老の家康と共に北関東に遠征する時に、石田方からは人質として大坂城に入るよう命令されるも、ガラシアはそれを拒んで家臣に胸を突かせ、屋敷に火を放って自害した。享年37歳。

  最近では、これまで信じられて来た様に単純な事件でないことが分かって来た。忠興の家族らは夫人だけを残して事件の前に逃亡していたのも、又夫人が家人に自らの殺害を命じたのも不審が残る。それは家人の総てが天主教に改宗させられていたからだ。いくら懇願されても天主教徒が天主教徒を殺害できるだろうか。だから秀吉や三成から信仰が禁じられ、弾圧されていた天主教徒らが、天主教存続の可能性を東軍勝利に賭けたのだとする考え方が出て来た。家康について遠征した武将達を発憤させ、結果東軍の勝利に繋がったガラシアの壮絶な死は、夫の為でも御家の為でも無かったと言うのである。しかし彼らの悲願も空しく、30年後には徳川幕府によって天主教は再び禁教となり、天主教徒は見つけ次第処刑されたのだ。此の地から南側に公園を挟んで大阪玉造(カトリック教会)聖マリア大聖堂がある。明治時代、この地に建てられたカトリックの聖堂が空襲で灰燼となった後、別のカトリック教会に引き継がれ、1963年になって現教会へと生まれ変わった。この敷地内に高山右近とガラシアの石像が立っている。
細川夫人の辞世の歌、「散りぬべき時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」

さて暗越奈良街道に戻ろう。大聖堂の南西角から西に戻って、再び難波宮跡公園が見えた処で信号を南に曲がって長堀通りの一つ北側のビルに挟まれた細い東西の道、即ちこれが目的の奈良街道なのだが、そちらに向きを変えて東に進む。曲がって直ぐの右手には東雲(しののめ)稲荷神社がある。これも街道を行く人の道標であった。ここは江戸時代の代表的な町人、松屋甚四郎と手代まつ屋源助が「浪速講」を設立した地として知られている。江戸時代は伊勢参りが流行ったが、情報に乏しい往時の人にとって旅は非情に危険なものであった。行商で身を立てたこの二人は体験を活かして優良な旅館を選んで「浪速講」の看板を掛けさせ、また旅人には講が指定する旅籠(はたご)では、賭博、買春、大酒呑みを禁じて、今の旅行ガイド、「浪速講定宿張」を持たせ、安全な旅を実現させた。この「浪速講」はやがて全国に拡がり、後の協定旅館・ホテルのルーツとなったと言う。

 更に街道を東に進み、大阪女学院の前を通り過ぎて、消防署の前を左折する。街道から再び脱線するのは寄りたい処があるからだ。それは北に7分ばかり歩いて突き当たる岡の上にある玉造稲荷神社である。玉造の名は、古代に碧玉、琥珀(こはく)、水晶、瑪瑙(めのう)などを使って宗教祭器の勾玉(まがたま)や装飾品を造った玉造部(たまつくりべ)の人々が集団居住したことを示している。玉造稲荷は信長の石山攻めによって焼失したものの、淀君、秀頼母子が一旦再建したが大坂の陣で再び罹災し、1631年に徳川氏が復興した社殿を、1954年現在の様に建て替えたのだ。境内には「伊勢迄歩講起点」の石碑がある。伊勢参りの人もこの地を必ず立ち寄り、道中の無事を祈ったのだろう。

京セラの高層ビルを見上げながら、玉造駅へと急いだ。環状線のガードを潜ると右手に二軒茶屋石橋旧跡と彫った石碑がある。江戸時代、伊勢参りの流行りと共に奈良街道の往来が盛んとなり、本当の街道の起点というべき此の地に「つるや」「ますや」という二軒の茶屋が建てられた。1700年前後にこの傍らに流れる猫間川に幕府は往時には珍しい石橋を架けさせた。正式名称は黒門橋だったが、人はこの橋を石橋と呼んだのだ。時刻は正午を回り、これ以上街道を進むのは後日のことにしようと、そこから帰路の鶴橋駅の方向に歩いた。後に猫間川は埋め立てられて道路となった。

 近鉄とJR環状線が交差する鶴橋駅周辺の商店街には店舗数が800余りあって、六つの商店会で構成されている。飲食店は殆どが焼肉店であり、キムチやチョゴリや韓流グッズを売る店が多いところを見れば在日韓国・朝鮮系の経営者が多いことは分かるが、中には満州や半島から引き揚げて来た日本人や中国・台湾系の人が経営する店もあるようだ。
このような国際的な商店街が生まれた背景には戦後の闇市がある。駅周辺では終戦前の1944年から建物疎開が大々的に行われた。だがこの辺りは空襲被害を受けなかった。広大な空き地を残したまま終戦を迎えたことと、近鉄線の後背地の奈良や三重と言った山と海の産物に恵まれ、交通と商品運搬の便もあって、勢い鶴橋は好適の闇市となったのである。戦後建物疎開地は本来の持ち主に戻されることになったが、空き地には既にバラックの店舗が建って市場と化していたので、闇市の商人たちは地主や家主から土地の賃借や買い取りをして新たに商店街として歩み出したのだ。

時刻が12時半を回ったところで、この日の散策はこの近鉄鶴橋駅で終えることにするが、次回は玉造駅から東に進むことになるので、ここでもう少し鶴橋駅付近の二カ所ばかり説明を付け加えたいと思う。近鉄のホームの下にある迷路の様な商店街を東に通り抜け、疎開道路を南に少し下ると、御幸森天神宮と御幸通商店街の入口がある。商店街に入ると、東西500メートルに渡って120余りのエキゾチックな店舗と幾つかの「コリアタウン」と英語で書かれた門が並んでいる。
1980年代になって在日の韓国・朝鮮人らによる誇り高き民族意識を取り戻す運動が高揚する中、83年に民団系青年会議所と日本の大阪JCが共同して街の活性化を目指して「コリアタウン構想」が提案された。賛否両論の中、紆余曲折があって、10年後にやっとコリアタウンの門が建てられ、その8年後に今の商店街が完成した。今日では全国から異文化に触れたい多数の日本人が訪れる観光地となった。願うらくは、お互いの国籍や民族の違いを尊重しつつ、他文化共生のシンボルとしての存在感を大いに誇示してほしいものである。なお鶴橋の名前の由来である「鶴の橋」の遺跡も、先ほどの御幸森天神宮のすぐ南にある。