第五回 地下鉄新深江駅から神路商店街経由で近鉄今里駅まで
第五回 地下鉄新深江駅から神路商店街経由で近鉄今里駅まで
年が明け、1月11日の土曜日、再び暗越奈良街道とその周辺を散策を続けようと、地下鉄千日前線「新深江駅」西出口から、国道308号線(今里交差点から東へ長堀通りと千日前通りが合流した道)の北歩道に上がったのは午前11時5分だった。今回初めて妻が同行する。地上に上がった所から東に歩き、直ぐのバス停を通り過ぎた次の角を左折して、一方通行の道を逆方向に北へと向かう。二年前に発行された暗越奈良街道のガイドブックによれば、その道沿いにはとんかつ屋があるので、こじんまりしたお店で地域の人々と交流するのも良いだろうから、少し早いがお昼にしようかと思ったが、生憎その店は閉店していて、次の借主を探す張り紙が貼られていた。しばらく北に進むと左側に「神路(かみじ)本通商店街」と書いた入り口があって、私たちは前回の奈良街道の散策を終えた地点に戻るようにそこから西に向かって進んだ。
東西に全長約800メートル、一本道に連なる実に長い商店街だ。平野川の氾濫を防ぐために、新平野川と共にバイパス水路として造られた平野川分水路を越えると「神路商店街」と名が変わり、そして再び途中から「今里一番街」、又再び名を変えて「今里新道筋」となって今里筋の大通りに達する。さてこの「神の路」とは如何なる意味か、調べてみると、弥生時代の晩期、大和を国の中心となし、この国を統治しようと九州から軍船を率いて瀬戸内海を東進し、大阪湾から上町台地北の浪速(なみはや)の隘路を通り抜け、東大阪全域を覆っていた河内湖に入って、生駒山山裾への上陸を試みた「神武天皇が通った路」の意味だった。付近の小学校の名にもなった神路という大正時代の地名の命名者には悪いが、瀬戸内海を大きな軍船で東進して来た神武天皇軍が、河内湖の中で深江や片江といった大和川が運んだ土砂が堆積する南側の浅瀬を選んで進んだとは私には到底思えない。恐らくはもっと北の、後世の船着き場、八軒屋辺りから、天皇の上陸の地、日下(くさか)盾津浜(東大阪市日下町~善根寺町)を結ぶ一直線を進んだ筈ではないだろうか。
名称こそ由緒ある商店街だが、今やアーケードの下は何となく薄暗く、土曜日だと言うのにシャッターが閉まった店が散見される。今政府は景気浮揚に全力で取り組んでいる。上場会社の株価が上がったことや、輸出企業に利益が出ていることなど、功を奏していることもあるが、問題は実態経済であって、このような商店街が、嘗ての活気を取り戻してこその景気浮揚だと思うのは私だけだろうか。周辺に密集する住宅地に消費意欲のある若い世代が住まなければ、昔の活気を呼び戻せはしない。しかも気になるのは自転車が我が者顔に商店街を走り行くことだ。道の真ん中に立ち止まって店を観比べようものなら、自転車の呼び鈴がけたたましく鳴って「危ないぞ!」と怒鳴られてしまう。その後ろから徒党を組んで自転車に乗る若者の一隊が、車の様なスピードで走り過ぎて行った。
それでもこの商店街を地域住民の力で活性化させようとする試みも幾つか見られる。ひとつは平野川分水路にかかる新道橋の左右の欄干にベンチが付けられ、橋そのものを団らん場所としていることだ。又東岸堤防のコンクリートの壁には「夢ふれあいギャラリー」と題して、地域の子供達が「東成区の夢、将来」をテーマに描いた多数のカラフルな絵が目を楽しませてくれる。そして橋を渡ってしばらく行くと、廃業したお店が音楽好きな若者たちが集まる場所になったり、又もう少し今里筋に寄った方では今里新道「PATORI」と名付けた、おじさんやおばさん達の交流サロンがある。時には歌声喫茶となったり、落語会場となったりするようだ。この場合のPATORIは愛郷者の意味だろう。
PATORIの前を通り過ぎ、直ぐの洋菓子屋がある四つ角を左折すれば暗越奈良街道に通じて、街道に合流する辺りの喫茶店で休憩して前回は散策を終了したのだった。今回は同じ四つ角を右折して北に脱線することにする。奈良街道に入る前に観ておきたかったのは、玉楠大明神境内の樹齢1300年と言われる楠の大木である。幹周りは11メートル、樹高は25メートルあって、平成17年に大阪市保存樹に指定された。明治18年の大洪水の時、今里村村民40数名がこの楠の上に櫓(やぐら)を組んで3日間耐え忍び、難を逃れたと伝える。根本から無数の枝が四方に伸び、深海から上がって来た巨大なダイオウイカ(大王烏賊)が航行する船を八本脚で捕らえようとする姿にも見える。今は櫓ではなく、神の祠が乗せられている。楠の古木に神妙に手を合わせた後、商店街に戻る手前に、ピラフやスパゲッテイー等の軽食がメニューにある喫茶店を見つけ、そこでお昼をいただくことにした。
北から南へ商店街を越え、右手から合流して来る暗越奈良街道に入り、それを道なりに南東方向に進む。道幅は狭くて車の対向は困難だが、歩く方向に一方通行だと知って一安心。百メートルも歩けば、その間十メートル程のことだが、両側に弁柄格子がある古い瓦葺きの建物が並び、時代劇のセットにでも迷い込んだのかと思う。
ガイドブックには隣家からの類焼を防ぐ袖壁の「梲(うだつ、卯立、卯建とも書く)」に注目するように書かれているから、注意して屋根の下や庇の上を仰ぎ見れば梲は難なく見つけられた。梲が付く屋敷を建てるには出費を要するから、それは蓄えや余裕のある者にしか出来ないこと。だからそうでない者は「うだつの上がらぬ者」と言われるようになった。
古民家から百メートル程歩いたところを左折し、熊野大神宮にもお参りして行く。創建は聖徳太子によると伝える由緒ある神社だが、お参りしたかったのは隣の妙法寺に葬られたある古人の墓だった。国学の祖と言われる僧、契沖(1640年~1701年)の墓である。国学などと言うと私達には何の関係もない学問のように思えるが、実は明治維新の偉業をやってのけた志士たちの尊皇思想は、この国学が発展したものなのだ。契沖が登場する迄、我が国での学問の対象は大陸渡来の儒学か仏教に関するものに限られた。契沖は、尼崎藩士だった父が浪人したことで幼くして妙法寺に出された。その後、高野山や和泉を転々としながら仏典・漢籍と共に日本の古典を数多く読む。38歳の時に再び妙法寺に住持分として戻った。以後日本古典に表れた仮名遣いの研究者として大成し、万葉集や源氏物語などの注釈書を著した。その後、契沖に学んだ荷田春満らによって、人間らしい感情を押し殺していると儒教仏教の道徳を批判し、人間ありのままの感情を評価する国学が誕生する。その精神は時代を追い、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤(あつたね)へと継承され、幕末の尊皇思想へと発展して行くのである。契沖の墓は寺の墓地に入らずとも誰でも参拝できる境内地の中にある。
街道に戻って暫く歩くと国道308号線に出る。そこに笠石を乗せた石の道標が立っている。上部をくり抜いて火袋にした中にローソクを灯し、夜間の通行を助けたと言う。奈良街道はそこから左折し、後は暫く国道308号線を東に進む。つまり嘗ての街道はこの広い国道の下に消えたことになる。私は街道を東に進む前に、国道と近鉄奈良線に挟まれる、昔片江と言った地区を暫く散策し、今日はそのまま近鉄今里駅から帰るつもりである。
片江は芸人の町と言われたり、上方落語復活の町と言われたりした。昭和の初め頃、この地域には五代目笑福亭松鶴の自宅、落語荘を中心に、多くの芸人が住むようになった。五代目松鶴は、同人を募って「上方はなし」を発行し、貴重な上方落語の資料を後世に伝えるとともに、大阪・京都で「上方話を聴く会」を開始したり、後進の若手落語家の育成、指導に尽力した。又付近には双葉館、東楽園、風月寄席などの演芸場もあった。今は片江地域集会所の前にある「芸人の町・片江」の顕彰碑によって往時が偲ばれるだけである。銅版で創られた顕彰碑の中に、この近隣に住んだ多くの芸人の名が彫られていたが、その中に横山エンタツの名を見つけ、子供の頃に映画等で観た懐かしいチョビ髭の眼鏡顔を思い出す。この地区の東の端には昔吉本興業の社宅があったようだが、それも今は大きなマンションに建て替えられている。その社宅には浪曲の二代目、広沢虎造などが住んでいたようだ。
片江の顕彰碑からまっすぐ西に100メートル程歩いて目に止まったのは、一軒の床屋の看板「理髪トコリン」である。ガイドブックにNHKテレビ朝ドラの「ちりとてちん」のロケ地となったと説明があった。だが目に止まったのは、テレビドラマに登場した床屋だからではない。その奇妙な名前なのだが、実は私は「トコリン」の謂われを本で読んで知っていた。この店の年老いたご主人は、程さんと言って二代目。お父さんは福建省出身の華僑で、大阪ミナミの楽天地(後の千日デパート、今のビッグカメラ)にあった散髪屋トコリンで修行した後、この地で開業した。のれん分けのようなものだろう。大阪の中国人理容業者は、大正年間に日本に移住してきた華僑が基となっている。大正中頃には留日大阪華僑理髪組合が創立され、二百数十名組合員を数え、昭和7年には435名に拡大した。その頃、生野区内には10軒の理容店があったが、いずれも福建省出身華僑の店舗であった。理髪店は三つの系統に分けられ、一番大きいのがトコリンで、福州出身の林木松が創始者とされている。つまりトコリンは床屋の林(リン)さんである。
私たちはそこから近鉄今里駅に歩いて帰った。時刻は午後1時半だった。