第九回 けいはんな線吉田駅から近鉄枚岡駅まで

第九回 けいはんな線吉田駅から近鉄枚岡駅まで

 5月29日木曜、午前だけ仕事を休み、朝から大阪市営地下鉄中央線が乗り入れる近鉄「けいはんな」線の吉田駅に向かい、お昼までの数時間、暗越(くらがりごえ)奈良街道の散策を続けることにした。今回散策の主要目的地、街道唯一の公認宿場、「松原宿」に向かうのに、近鉄奈良線の東花園駅ではなく、何故北の吉田駅を出発点にしたかは勿論理由がある。吉田駅には9時15分前に着いた。ホームの駅名を示す標識には「吉田(よした)」の2文字の下に「中甚兵衛の碑前」とある。今日の利用客の内、どれだけの人がそれに気づいているだろうか。

中甚兵衛とは、大和川の付け替えを提唱し、四十年もの歳月を懸け、新大和川に住居、田畑が奪われる人々と、その為の工事費用を捻出する江戸の幕府を交互に説得し続けた河内の一農夫だ。彼の粘り強い説得が功を奏し、柏原から堺まで全長14キロの新大和川は川幅180メートルとすることが定められた。そのような大河を造る費用を捻出する為に、付け替え後に干上がる旧河川の跡地は総て新田として開発された。それら新田には農家の増収を求めて米ではなく綿花が栽培され、更に付加価値を求めて綿花は綿糸に、綿糸は生地に織られて、河内は全国に有数な木綿産業地帯となった。更に河内木綿の生産に投資することで商人が多く住む大坂の資本蓄積も進んだ。後に大阪が産業都市として発展する基をつくったのが、1639年今米村の庄屋の次男に生まれた中甚兵衛だったのだ。

 当初、河内木綿史の研究者、武部善人大阪商業大学教授が、その著書に書かれた記述を鵜呑みにして、大和川付け替えの経緯を前回のブログに書かせてもらった。ところがその後で、それは世間の通説とは違うことに気づき、私自身は武部教授の説が誤っていると言うつもりもないが、通説で分からないとされることは、そのまま分からないと記事を訂正することにした。甚兵衛も兄も今米村の庄屋の息子だったと言うだけで、最初から苗字があった訳ではない。この国家的プロジェクトを成功させた功績により、後になって兄は川中を、弟の甚兵衛は中を名乗ることが許されたのだ。

現在、駅のすぐ北側の今米公園に、大正天皇のお声掛かりで建てられた中甚兵衛を賞する石碑があって、すぐ北側には甚兵衛の兄を祖とする川中家の茅葺きの民家が、即ちそれは甚兵衛の生家でもあるようだが、鬱蒼とした緑の中にひっそりと建っている。石碑を残して甚兵衛の偉業を称えようとの話が持ち上がるのは、彼の死から百五十年余りの歳月が流れた日露戦争の頃だ。川中家の屋敷は残ったが、中家は残らず、跡地に石碑が立っているだけだ。今にも朽ち果てそうな川中家の屋敷を保存しようと活動しているのは歴史を知る地元の志有る人々であって、国や府や市ではないのがなんとも心許ない。

さて吉田駅から南に十数分歩くと、奈良街道で唯一宿場町として幕府に公認された松原宿の跡地にやって来る。前回は府道15号線(産業道路)の大通りを花園ラクビー場の手前まで歩いて街道散策を中断し、近鉄東花園駅へと向かった。奈良街道を追ってそのまま東に歩くなら、信号「花園ラクビー場前」辺りから府道とは北東方向に逸れ、英田北(あかたきた)小学校の南東角を左折して100メートル程真直ぐ北に行った角で再び住宅地の中を東に進むことになる。つまり東西に行き交う街道をクランク状に曲げて出来た南北方向の道こそが松原宿の跡なのである。往時はこの道の両側に16軒もの旅籠が賑わった。現存する数十年前の写真には茅葺きの民家が散見され、伊勢参りで賑わった宿場の雰囲気も少しは残っていたようだ。だが今は全くその面影は無い。

 

 お伊勢参りが空前のブームになって500万もの人が参拝したと言う1830年など、この松原宿はどれだけ賑わったことだろう。この2間(3,6メートル)程の狭い道を16軒の旅籠が客を奪い合ったのか、それとも満室だからとどの宿も強気で断ったのか、そんな光景が目に浮かぶようである。
松原の宿場としての公認は、街道、関所、宿場が整備される江戸時代になってからのことだ。だがそもそもそれ以前には、この辺りに宿場があったとも、旅人の往来があったとも、一切記録されてはいない。松原宿を造る為に奈良街道がここでクランク状に折れ曲がることになったにせよ、その辺りは生駒山の暗(くらがり)峠から下ってくる道とまっすぐに繋がっているだけに、例え宿は無かったにせよ、その辺りを東西に古代の昔から旅人の往来があったと考えるのが自然なのかもしれない。

しかし私はそうではなかったと考えるのだ。古代は勿論、凡そ鎌倉室町の中世まで、この辺りは沼ないし湿地帯で人馬の通れる所では無かったと想像するからだ。その証拠に松原宿のすぐ南側には、近鉄花園ラクビー場を中に呑み込む広大な花園中央公園が拡がっている。古代の内海、河内湖、その名残である中世の深野(ふこの)池の南端の今のなれの果てが、人口の密集する東大阪市で、人の住まない、池や緑の自然豊かでこの広大な中央公園なのではなかろうか。だから大和(奈良)から生駒山を越えて暗峠を下って、そのまま真直ぐ西に進めるようになるのは、深野池が次第に縮小し、この辺りが乾きだした近世(戦国時代)になってからで、その昔は東高野街道に出た後、一旦南の六万寺辺りに迂回し、玉串、若江等(今の府道24号線から勝山通り)を経由して、四天王寺へと進んだのではなかったか。

 松原宿から東に向かう北の端の曲がり角には昔の石の道標が残っていた。そこから住宅地の中を東に進むと水走(みずはい)川に出る。川を渡って更に東に少し行くと今の通称外環状線(国道170号線バイパス)の大通りに出るが、その辺りは陸橋になっていて、車やトラックが途切れなく走る大通りの下の地下道を潜って渡ることができた。更に生駒山を目指して東に向かうと旧国道170号線のバス道路に出る。そこが箱殿と言われる交差点だ。一般的に東高野街道はこの旧170号線と同じ道なのであるが、この辺りでは高野街道は旧170号線の少し東側を平行して走っている。即ち奈良街道と東高野街道の交差点はひとつ東の箱殿東なのである。私は箱殿の交差点を左折し、バス道路を北に向かって歩いた。きっと昔の信仰深いお伊勢参りの旅人なら、ここではちょっと東高野街道を北に向かって歩き出し、寄り道をしただろうと思うからだ。

 その寄り道とは石切剱箭(つるぎや)神社を参って行くことだ。この神社は俗に「でんぼの神様」とも言われるように、病気治しに始まり、様々な悩みを解決する御利益(ごりやく)があると、今日もお百度を踏みに来る参拝客で絶えない。ただし「でんぼの神」とは、学の無い庶民の「伝法の(真理を伝える)神」の聞き違いだとする説もある。
祭神は物部(もののべ)氏の先祖のニギハヤヒの神とウマシマジの命(みこと)である。物部氏とは飛鳥時代の前期、蘇我氏と覇権を争った有力豪族だ。その始祖が神武天皇の時代に生きたウマシマジである。彼は生駒山一帯を支配して神武天皇の石切上陸を阻止したトミ(登彌)族の一員で、その長はナガスネ彦と言った。

神武天皇の実在すら疑い、古事記や日本書記の建国物語も、それを編纂した8世紀初頭、朝廷に都合良く捏造された神話であって歴史的根拠はないと一蹴する歴史学者もいる。しかし建国物語に登場する、兵隊を乗せて瀬戸内海を渡ってきた大型船がそのまま河内の内海を進み、この石切の盾津浜(石切剱箭神社の少し北の地だと伝える)に上陸したという話等から想像する河内湾の大きさは、縮小が進んだ7、8世紀のものではなく、かなり古い時代のものであることや、又奈良県の各所に神武天皇所縁の足跡が今も複数残っていることなどは、どう考えるべきであろうか。

 トミ(登彌)一族に上陸を阻止された天皇は、一旦大阪湾に退却し、熊野に回って大和に入った。南大和を武力で平定した天皇は次に北大和でトミ一族と対峙することになるが、ウマシマジは主のナガスネ彦を裏切り、その首を持って神武天皇に降伏し、以後朝廷の重臣となって物部氏を興したと伝えている。余談であるが、因果応報とも言うべきか、物部氏の最盛期の主であった物部守屋は、蘇我馬子や推古天皇と仏教公認を巡って争った時に、トミ族の末裔イチヒに射殺され、一族もろとも滅び去っている。

 石切剱箭神社から今度は住宅地の中を進む東高野街道を歩いて戻り、箱殿東の交差点から奈良街道の坂道を生駒山の麓の近鉄奈良線枚岡駅へと歩いて登った。途中、ガイドブックに導かれ、公園の中にあった「中村邸跡」の石碑を見て行く。1614年、天領(幕府直轄地)だったここ豊浦村の代官職、中村正教(まさのり)は、大坂冬の陣の際は徳川秀忠に、翌年の夏の陣の際は徳川家康に自宅を本陣として差し出した。戦勝の暁には家康から感状や盃が与えられたと伝わっている。後はまっすぐ枚岡駅まで歩いて登るだけだ。駅に着いたのは11時半だった。