第十回 近鉄枚岡駅から東生駒駅まで (前編)

第十回 近鉄枚岡駅から東生駒駅まで (前編)

 奈良街道の歴史散策も終わりに近づき、いよいよ生駒の山道を登っての峠越えである。だが平地歩きには自信があっても、山登りは長く体験せず、不安もあった。そこへ心強い同行者が現れた。世間に知られない無名の寺社を巡拝しながら、郷土の歴史を実地で学びたいと言う友人二人から、昔から各所に礼拝対象がある信仰の山の生駒山の「暗峠」を越える回には是非同行させて欲しい、との申し出があった。こんなに嬉しいことはなかった。

6月13日金曜日、私達3名は涼しい時間に生駒山を登ってしまおうと、朝の7時45分に鶴橋駅に集合し、近鉄奈良線の各駅停車に乗って生駒山の麓、枚岡駅へと向かった。枚岡駅に着いたのは8時16分、踏み切りを渡って降りたホームの反対側に回り、枚岡神社の二の鳥居を潜って石段を登る。天候は曇り空で、気温もまだ高くなく、緑豊かな境内に足を踏み入れると、心地よい霊気にふれるように感じ、身もひきしまる思いだ。


 枚岡神社は河内一宮であって、建国の時代に神武天皇の勅命によって、出雲の国譲りに功績を残し、神武租神の天孫降臨を補弼(ほひつ)した天児屋根命(あめのこやねのみこと)と后神、比売(ひめ)大神を祀るよう、神武橿原宮即位3年前に生駒山中に創建されたもの(現在の神津嶽本宮)を、後に平岡連(ひらおかのむらじ)に命じて、この麓の枚岡(元は平岡)に建て直させたと言う。故に太古の昔から続いてきた神社である。ひら岡の「ひ」とは古代人の言葉では「神霊」の、「ら」とは「多く」の意味があって、平岡(後に枚岡)には「神霊満つる丘」の意味が込められているとのことである。

拝殿の奥に四棟の本殿がある。第一殿には天児屋根命、第二殿には比売大神、第三殿にはタケミカヅチの神、第四殿にはフツヌシの神が祀られている。これら神殿が、伊勢神宮などの神明造りではなく、出雲様式の「大社造り」であること、そしてこの地が今も出雲井と言われるのも、大和朝廷と出雲王国との関わり合いに私たちの知らぬ秘められた歴史でもあるのかと気になるところだ。

神社の創建者、平岡氏から中臣(なかとみ)氏が生まれ、中臣氏は大化の改新を経て藤原氏となって、長く国政を掌握する一大勢力となった。藤原氏はこの神社の御神霊を自らの租神とし、後に奈良の春日大社でも祀って氏神社とした為、枚岡神社は元春日とも言われているそうだ。
古代から中世にかけて神社は地元の豪族、水走(みずはや)氏に支えられてきた。水走家9代康政の時、四条畷の戦いで足利軍に大敗した楠正行(まさつら)に味方して凋落し、その後新たに河内守護となった畠山氏に下り、枚岡神社神官を務めながら生き伸びた。


枚岡神社から奈良街道にショートカットしようと北に歩けば、その途中で、姥(うば)ヶ池という小さな池に出る。この池には夜な夜な青白い炎が現れるという伝説がある。昔、昔、枚岡神社の神燈の油がよく無くなるのであった。その盗人を捕らえてみれば貧しい老婆である。老婆は釈放されたが、罪を恥じてこの池に身を投げた。以後老婆の人魂が青白い炎となって池に現れるのだ、と言う。姥ヶ池を少し下った道を、住宅地の中を北に進むと奈良街道の細い坂道に出る。道幅は3メートル程、車がよく通るが、対向ができなくて、その度にどちらかの車が広い場所まで後ずさりするのだ。そんな道でもれっきとした国道308号線である。

街道を上り始めるとすぐに勧成院(かんじょういん)という日蓮宗のお寺に出る。当境内にある「菊の香に くらがり登る 節句かな」と彫られた石碑は、1694年(元禄7年)に俳人松尾芭蕉がこの奈良街道を歩いて詠んだ句を、1799年、豊浦村の庄屋であって俳人でもあった中村来耜(らいし)が芭蕉没後百回忌を記念して建立したものだ。もとはもう少し上の方にあったのだが、山津波にあった後は行方不明になっていた。そこで明治時代になって同じ場所に句碑の再建が行われた。ところが1913年(大正2年)の大雨で江戸時代の歌碑が偶然発見され、この勧成院に移されたのだ。


そこから更に豊浦川に沿って野尻伸線所と言われた豊浦谷水車工場跡の木造の古い建物を右手に見ながら街道の坂道を登って行く。ここは大正時代まで豊浦川の水流で水車を回し、その動力で鋼材から針金などを作っていた所だ。近鉄線高架付近からまだ1.5キロ登って来たに過ぎないが、この間に二十数カ所の水車工場跡が確認され、伸線の他には、精米、精麦、金属粉末加工業などが営まれたようだ。この豊浦川を境に南側(峠に向かって右側)が出雲井町、北側(左側)が東豊浦町である。
そして左を指して「枚岡公園」と書かれた道標がある四つ角に来ると、私たちは大阪平野の眺望を楽しみたく、街道から100メートルくらい寄り道して公園に入ってみた。そこには想像以上の雄大な風景が拡がっていた。本文最初の画像がその眺望である。


 眺望を堪能して街道の四つ角に戻れば、実はそこに「おやすみ処 初音」と書かれた茶店がある。だが私たちはそこでは休憩せずに先を急いだ。すると右手に広場があって、そこに足を踏み入れると山手の土手に古墳の石窟がある。それが豊浦谷一号墳という古墳である。古代、この辺りを治めていた豪族は水走氏であるから、彼らの先祖の墓なのかも知れない。


そのすぐ側に江戸時代に山津波で失われた芭蕉句碑を、明治になって新しく造り直されたものが立つ。1889年(明治22年)、俳句結社、河内六郷社が立てたものである。


さてこの茶店を過ぎた辺りから街道は山の中へと入って行く。峠に向かって左側に続く林は枚岡公園の自然林だ。少し歩けば右側の谷沿いに法照寺というお寺がある。そこで急に雨が降り出した。通り雨だろうと思い、兎に角お寺の軒先でも借りて雨宿りをすることになった。3名の内、一人が傘を持たずに来たからだ。するとお寺から女性が現れ、傘無しではさぞお困りでしょう、と彼に親切にもビニール傘を提供して下さった。法照寺の奥には立派な塔があるが、外から見えるのは塔の屋根だけである。私たちは傘をさして次の目的地である観音寺へと急いだ。


徐々に急坂となって行く。ふくらはぎが少しずつ痛み出す。一生に一度、伊勢神宮をお参りしたいからと、こんな山道もある奈良街道や伊勢街道を歩こうと決意した昔の人々の精神力を改めて凄いと思ってしまう。 観音寺に着く頃には雨も一旦は止んでくれる。観音寺は街道の左側に大きな駐車場がある。そこがこの辺りの車の対抗場所にもなっている。右奥のお寺に入る道の手前に右に川を渡る橋があって、その向こうにはお寺の写経場と書かれたお堂が建つ広場があるのだが、ガイドブックによれば、そこには昔から諸大名も利用した茶店があったのだと言う。


聖法山(しょうほうざん)観音寺、街道の右下に参道が進のだが、街道の右下の崖の部分、つまり参道からは左上に見上げる土手に紫陽花が植わっていて、その花は蒸し暑さも一瞬忘れるくらいの清々しき青さである。境内の奥に進むと川を渡って金色の巨大な観音像を参拝する処にも行けるが、まっすぐ奥に進むと「天竜の滝」と言って、修験者が滝に打たれて修行するような水場がある。そこは昔から街道を行き来する人に飲料水を供給して来たようだ。
観音寺からは益々坂道の登る角度がきつくなって行く。暗峠はまだまだのようだ。時刻はまだ10時前である。(後編に続く)