第一回 番外編 JR島本駅(西国街道桜井ー楠公父子決別地) 

第一回 番外編 JR島本駅(西国街道桜井ー楠公父子決別地)

ずっと私は東高野街道を歩きたいと思い続けて来た。大阪府下にはいくらでも名高い街道はあるだろう。なのになぜ東高野街道なのか。私は日本の歴史研究が好きだと言っても、それは特定の時代に絞られる。一つは聖徳太子から持統天皇にかけての飛鳥・白鳳の時代、そしてもう一つは楠木正成(まさしげ)や息子正行(まさつら)が生きた鎌倉末期から南北朝の時代である。だから読む本も日本書紀の解釈本と太平記の解説本がどうしても多くなる。

東高野街道が日本歴史の中で脚光を浴びるのは後者の楠木正成(まさしげ)、正行(まさつら)の時代である。北条氏の鎌倉幕府を滅ぼして王政復古を願った後醍醐天皇によって樹立された建武(けんむ)(中興)政権の、与党勢力の一翼を担った奥河内東條赤坂の領主楠木一族が、自領と京の都の間を何度も往復したのも、また北条与党勢力や次の足利幕府軍と戦ったのも、この東高野街道であった。それは中世近世の河内の国を南北に貫通する幹線道路だったのだ。

現代に残る東高野街道の跡、楠木父子の歩いた跡、戦った跡を自分の足で辿りながら、楠木父子を代表的な無私の愛国者と敬愛しながらも、私は「平家物語」や「源平盛衰記」と並ぶ日本の代表的古典である「太平記」に記載された記事の矛盾をつくことがあるかもしれない。しかしそれは純粋な真実の探究心からであって、それで楠木父子の愛国心や武士道精神に一片の疑念を挟むものでないことを、先ずもって断言しておきたい。

平成29年9月14日、初秋とは言え、残暑に汗ばむ好天の蒸し暑い日。数日前までは竹内街道歩きの最終回として橿原市の寺内町、今井を訪れる予定だったが、そこには行きたいが、この日は都合悪いと言う参加者の希望を容れて予定を変更し、次の東高野街道の関連で私が行きたかった西国街道の桜井駅跡地に、いつもの相棒、岡田氏と二人で訪ねることになった。

それはJR京都線島本駅の前に今は「楠公(なんこう)父子決別地」として歴史公園として保存されている。北条武家政権が倒され、公武連合の建武(けんむ)政権が成って僅か2年後の1336年、政権を裏切り、天皇後醍醐に叛旗を翻し、関東から大軍を率いて京に攻め上った足利氏だったが、北畠、新田、楠木らによって鎮圧され、命からがら九州に逃げなければならなかった。天皇は新田義貞に命じて足利の止めを刺す為、九州に遠征させようと山陽道を下らせたのだが、新田軍は姫路辺りで足利方の赤松氏に抗われ、進軍に手間取る間に九州の足利氏が息を吹き返した。兄の尊氏(たかうじ)は水軍の大軍率いて、弟の直義(ただよし)は騎兵の大軍率いて京に進撃を開始したとの知らせで、後醍醐天皇はたまたま御所警護の為京にいた約千名の楠木軍に、直ぐに兵庫に赴き、新田軍に加勢しろと命じた、と伝わる太平記のあの有名な湊川の戦いのエピソードである。


太平記によれば、北畠軍や新田軍と共に、賊軍(天皇や国に抗う軍)の足利兄弟を九州に追いやった楠木正成だったが、今度ばかりは官軍(国の正規軍)が破れる不安がつきまとい、西国(さいごく)街道を兵庫に向かう途中の桜井駅(駅とは古代律令制の下に官営で造られた宿)で一泊し、翌朝の5月23日早朝、一族郎党の半数を付けてまだ年若い正行(まさつら)を故郷の奥河内東條に返したのだという。正行(まさつら)一行はこのすぐ南の高浜で淀川を渡り、楠葉に上陸して男山の南山麓を横断し、東高野街道を南に向けて帰ったことになる。

正成(まさしげ)は23日の夜、武庫川河畔で一泊し、翌日24日夕刻、既に和田の浜に着陣していた新田義貞と合流し、新田軍には、戦わず京への帰陣を薦めたが、拒絶され、楠木軍の騎馬部隊は会下山(えげさん)に、歩兵部隊は湊川の川原に南北に陣を張った。翌25日、和田の浜に上陸してくる尊氏(たかうじ)軍の上陸を必死で阻もうと、持てる矢を射尽くした新田軍が、正成に促され、渋々陣を引き払い、尼崎に向けて退却した後は、尊氏(たかうじ)直義(ただよし)両軍と湊川を挟んで戦い、足利軍の一兵たりとも湊川の東には進軍させなかったという。しかし多勢に無勢、生き残った味方が数少なくなった夕刻、楠木軍は付近の農家で差し違えて自決した。これが世に名高い湊川の戦いである。


楠木軍の決死の防戦によって無傷に東に向かった新田軍だったが、理性よりも感情が打ち勝つ性格だったのか、新田義貞は26日朝、正成(まさしげ)たちの壮絶な最期の報に接すると突如西の戦場へと引き返し、東に向かう足利軍と正面衝突して味方の大半を失い、折角の正成達の戦死を無駄にしてしまうのだった。

歴史にもしも?は無いというけれど、もしも正成が23日の内に、あるいは遅くとも24日の朝一番に兵庫に入っていたら、兵庫への到着が新田と楠木の順番が逆になり、湊川の戦いの様子は大きく変わっていただろうと推測されないだろうか。そうすれば官軍3万の兵を預かる新田義貞の京への移動もスムースに行われただろうし、正成達は足利軍の東進をかくも必死に湊川で食い止める必要も無かったかもしれないのだ。

歴史公園を去る前に島本駅前にある島本町歴史資料館に立ち寄る。展示品は南北朝時代に関連したものより、弥生時代、古墳時代のこの辺りの発掘品が多い。折角の場所だから、楠公父子の別れの解説にもっと展示スペースを分けてほしいものだ。


さて、もう少し太平記の桜井の駅の楠公(なんこう)父子の別れについて考えてみよう。
そこで正成(まさしげ)が24日の夕刻に兵庫に到着した原因を振り返って考えると、京を出発した22日の昼過ぎには恐らく桜井駅に着いていたはずなのに、そこで全員を休め、だらだらと当地で一泊したからではないかと気づいてしまう。厳しく言えば、だから湊川で全員討ち死にとなったのかもしれないのだ。

正成(まさしげ)は一族の半数を故郷に帰すためにわざわざ半日も旅程を遅らせたのだろうか。最近ではそれに異説が出ている。東條(河南町)赤坂(千早赤阪村)の領主、楠木一族の菩提寺は河内長野市の観心寺である。往時の住職は瀧覚(りゅうかく)和尚。この瀧覚和尚の日記が発見され、瀧覚(りゅうかく)はこの頃、京や摂津を旅行中だった、つまり桜井駅で正成が十数時間滞在した理由は、この瀧覚(りゅうかく)和尚との待ち合わせだったのではないか?との推測ができるのである。

島本町歴史資料館と桜井駅跡歴史公園を結ぶ道が昔の西国(さいごく)街道であって、現代の西国街道は少し淀川に寄ったところを走っている。その前に面白い店を見つける。瀬戸物の日曜雑貨品に草鞋(ぞうり)を売っていたのだ。草鞋と言えば、楠木正成の時代には、米や武器と並んで兵站の重要な物資であった。何故なら兵士は一日で草鞋を履きつぶすからである。何十日も続いたという正成の千早城の戦いの期間は、京から東高野街道を千早まで毎日毎日草履を積んだ荷車が走ったと聞いたことがある。

 


再び桜井駅の話に戻すが、正成はそれほどまでして観心寺の瀧覚(りゅうかく)に逢いたかったのか。何故なのか。それはこれから赴く兵庫の戦場では命を失う可能性が高いことを察知していたからである。正成の戦死、即ち足利方の勝利は、足利氏による東條・赤坂の領地没収に結びつくことは正成の予知するところだっただろう。では妻の久子は、子ども達はどうして生きていったら良いのだ。それを菩提寺観心寺に託したかったのだろう。なぜこの戦いだけ、どんな苦境にあっても、それに屈せず、いつもユーモアに満ちて明るい正成だったのに、彼には珍しいことであるが、なぜ敗戦を予期したのだろう。敗戦を予期したから、そのまま本当に敗戦になったような気もするのだ。

昔の人が島本(桜井)から淀川を渡り、楠葉(樟葉)を経由して東高野街道に至ったように、私たちはまっすぐ淀川岸へと歩き、高浜の町を背に淀川の渡し場の跡へと歩いた。楠木軍は太平記では半分の500名が桜井駅で本隊と分かれて淀川を渡り、故郷の赤坂に帰ったことになっているから、それが果たして可能なのか、実際に河を観て確かめたかったのだ。


楠木正行(まさつら)率いる500名の大隊がこの渡し場で数人しか乗れぬ舟に分譲して楠葉に渡ったとは考えにくい。そうではなく、大井川の渡しのように下半身を水につけて渡ったのだ、という人もおられるだろう。太平記で楠木軍が渡ったのは旧暦5月23日。今の6月中旬の、淀川が最も増水する時期である。比べて少しは水量が減ったであろう9月に観ても、歩いてこの急流を渡るなどは狂気の沙汰だ。辺りを見回して気づいた。この辺りは淀川が急に下っている処なのだ。だからこんなに川原は広いのに水の流れる川幅は狭く、結果河の流れも速いのだ。結論は楠木正行率いる500名の帰郷組は、どうやら島本=楠葉の渡し場では渡っていないということになる。

楠木正行率いる500名の一隊が淀川のどこを渡ったのか、参考になるのはやはり太平記である。足利尊氏(たかうじ)の大軍が関東から畿内に押し寄せた時、宇治橋を守る楠木軍と宇治川を挟んでにらみ合いになった。尊氏は楠木軍との正面衝突は控え、八幡(やわた)の大渡りまで迂回し、そこで河を渡って京に進軍したとある。大渡りとは淀川に合流する前の木津川、宇治川、桂川を連続して渡る地点、八幡(やわた)の男山に近い、今の御幸橋(ごこうばし)が架かった辺りである。恐らく正行(まさつら)一行が渡ったのもそこだろう。だから楠木父子は桜井駅ではなく、京を出発した半日後には天王山の麓で別れていたと考える方が自然だと私は思う。


 

私たちは淀川の川原を渡し場跡から元来た道に引っ返し、堰堤を越えて高浜の町を眺め、幕末の戊申の戦いに使われた高浜砲台の跡を探した。高浜砲台跡の石碑は町中ですぐに見つかった。この辺りの民家は歴史的風情が残り、ノスタルジアに浸れる地域である。

もう一度整理しよう。1336年、5月21日、後醍醐天皇、正成(まさしげ)に兵庫に赴き、新田義貞率いる官軍の加勢をせよと命じる。22日早朝、1000名の郎党を引きつれ、正成京を出発。天王山に差し掛かる正午頃、一族郎党の中で500名を選び、故郷に帰すことにする。正行率いる500名の帰郷組、大渡りで桂川、宇治川、木津川を渡り、男山から東高野街道を東條に向けて帰る。夜は六万寺で一泊だっただろう。正成は桜井駅に陣を張り、観心寺の瀧覚(りゅうかく)和尚を待った。夜に瀧覚到着。正成は楠木家の後事を瀧覚に託した。23日早朝、正成は500名の兵を率いて兵庫に向かって出陣。瀧覚(りゅうかく)は正成と別れ、高浜の渡し船で淀川を渡って観心寺に帰った。その夜正成は武庫川辺りで野営した。そしてこの後の話は同じである。24日、夕刻兵庫に着いて見れば、後に来る筈の新田軍が既に和田の浜に陣を張り、海上に見え始めた尊氏の水軍と対峙していた。


天皇の真意は3万の官軍を無事に京に戻すことだと認識していた正成は、新田義貞に、直ちに陣を解き、後は楠木軍に任せて京に戻るよう進言したが、それを素直に聞く義貞ではなく、どうしても尊氏の水軍に一矢報いたいと動かなかった。その夜、新田軍の後を追跡してきた足利直義(ただよし)率いる騎兵の大軍も須磨から兵庫に到着する。正成は翌日の決戦にはなんとしても、自分たち楠木軍は玉砕しても、新田軍をこの決戦には参加させないようにしなければならなくなったのだ。

私たちは島本町を離れるまえに水無瀬神宮と離宮八幡宮をお参りして帰ることにする。

水無瀬神宮(みなせじんぐう)は、鎌倉時代初期に北条幕府と京の朝廷との間で戦争になった承久の変で、結果敗者となって島流しの処分を受けた三上皇天皇を祭神に祀った神社である。境内の中に井戸があり、そこから汲まれる天然水は大阪で最も美味しい水だということで、私たちがお参りしている間も多数の人が大きなペットポトルを持って水を入れていた。


最後に離宮八幡宮を参拝し、阪急の大山崎の駅から大阪に戻った。

次回10月16日は竹内街道歩きの最終回に戻り、その翌月の11月から東高野街道歩きを始める。先ずは正行(まさつら)一行が大渡りで三つの川を渡って街道を歩き始めた京阪八幡駅からである。

東高野街道を行く 第一回番外編完。