第二回 七道駅から堺駅まで 前編

第二回 七道駅から堺駅まで 前編

 平成27年4月30日、O氏と私は南海本線の七道駅から南東に歩き、10分後には北旅籠町の、「鉄砲鍛冶屋敷町跡」と石碑に彫られた、代々鉄砲を造ってきた「井上関右衛門」家の屋敷の前に立っていた。外から見る佇まいの立派さは鉄砲づくりの盛んな頃を偲ばせる。17代目井上関右衛門は昭和40年に亡くなり、その子息は関右衛門と名乗らなかった。
鉄砲は1543年(天文12年)、ポルトガル人が種子島に漂着したことから伝来し、以後堺と紀伊阪本の二カ所で生産が開始された。堺での最盛期の年間生産量は1万挺を超えたと言うが、江戸時代は泰平が続き、時代を下るに従い生産量は下降した。

 更に南東方向に歩き、阪堺線の路面電車が走る紀州街道を越え、1本東に入った処に、豊臣秀頼母子を滅ぼそうと徳川幕府に味方する諸大名による大坂城攻め(大坂の陣)の後の堺の町割り時に造られた、即ち築400年という歴史的民家が残っていて、重要文化財に指定されている。山口邸と言って、中も公開している。

 更に南へと歩き、また大坂の陣関連の旧跡を見つける。お寺の名は月蔵寺と言う。門前に立て札あり、その由緒書きには、大坂の陣が勃発し、主君秀頼に命じられて大野道犬が、徳川家康が本陣を置く堺の町に火を付けた為、2万戸が類焼し、大量の焼死者を出した、とある。

このお寺にはこの事件で亡くなった人々を供養する碑がある。ところが話はまだ続く。大野道犬は捕縛され、火あぶりの刑に処せられた。ところが放火犯の道犬の遺骨もこのお寺がもらい受け、その魂を供養していると書かれているから驚きだ。仏教という宗教のおおらかさである。

 そこから本願寺堺別院は近かった。私もO氏も先祖の宗派は浄土真宗である為、開祖、親鸞聖人や、中興の祖、18代法主、蓮如上人のブロンズ像を仰ぎ見ながら、蓮如上人の霊廟の拝殿としてこの別院が建てられたことを知ると、とても感慨深くなり、真摯な思いでしばらくの時間、本堂の前で瞑目合掌した。

 また表の石碑によれば、この御堂の建物は堺県庁舎でもあったのだ。その期間は明治4年から14年まで。

 次に訪れたのが、明治の世を騒がせた「堺事件」所縁の妙国寺と、そのお向かいの宝珠院である。時に明治元年、無届けで堺港に上陸したフランス水兵を、港の警備に当たっていた土佐藩の藩士たちは咎めたて、ことの弾みで殺傷に及んでしまった。これが時の明治政府を震撼させた「堺事件」である。列強のフランスは烈火の如く怒り、明治政府を責め立て、高額の賠償金と関係者全員の処刑を要求した。その場にいた土佐藩士は29名。だがフランス側の訴えでは、その場にいたのは20名だったので、29名から「くじ引き」で選ばれた20名が、妙国寺境内で日本政府要人とフランス政府要人が見る前で切腹することとなった。

 ところが、そのあまりの凄惨さに耐えられなくなり、フランス政府の要人は11名が切腹したところで、その場から退席してしまった。結局切腹は立会人がいないからと、そこで終了することとなり、残る9名の土佐藩士は命拾いした。
罪人として処刑された11名の遺体は勅願寺であることを理由に妙国寺では埋葬が許されず、道を挟んだ隣の宝珠院に埋葬された。
実は殺害されたフランス人の墓もこの11名の墓の前にあるのだ。死んで成仏すれば敵も味方もない、日本人の宗教観の寛容なところだ。この事件の詳細を森鴎外は「堺事件」と題する小説に表している。