前書き


この写真は今朝、奈良市西郊地区にある私のマンションから、ベランダの前の池の端に植えられたアメリカ・フー(楓)を撮影したものです。
ご覧の通り、たった一枚の葉が残るのみです。実はこの状態になったのは昨年十二月のクリスマスの少し前からでした。ですから、自身すっかり枯れてしまいながらも、この一枚の楓の葉は一ヶ月以上、冬の厳しい風雨にも曝されながら、最後の最後まで諦めずに、枝から離れず頑張っているのです。
この姿は私には、今の霊園事業者に転業する前の寝具の零細事業者だった時代の最後の10年間、貧に苦しみながら、それも年を追う毎に酷くなりながら、なんとか自分と周囲の者達の境遇を改善したくて、必死に孤軍奮闘で戦っていた自分の姿のように見えるのです。
幸運の女神に見放され、貧のどん底にありましょうとも、それから脱したいという思いは、最後の最後まで持ち続けなければなりません。どんなに苦しくとも、決して諦めてはなりません。目標の九分どうりまでボルダリングで登っていたとしても、そこで苦しいからと諦めて手を放してしまえば、元の振り出しまで落ちて(戻って)しまうのです。
殆ど総ての人が自身の生活の豊かさ、自身の繁栄を望んでいます。しかし繁栄の基となる「富」を手に入れようと願う人がいかに多くとも、その「富」とは何か、を言える人は案外多くありません。ただ漠然と「富」のイメージを抱きながら求めているに過ぎないように私には見えます。
本当に「富」が欲しいのなら、その「富」について、その本質について、じっくりと考えて見るのが必要です。
今の霊園事業に転業する直前、私は絶望のどん底にありました。そんな境遇から私を救って下さり、私に人間的な生活を取り戻させていただきましたのは、昭和の末期、宗教書ブームで書店に並んでいた、宗教団体「生長の家」の創始者、谷口雅春先生が著された「生命の実相」全集(小説の中では「生命の光」全集で登場)に書かれている様々な教えであり、「生長の家」の人助けに熱心な信徒さん達や、その教義を学ばれた講師の方々でした。
そこで誤解のないように申し上げますが、まだまだ生命の実相哲学を学ぶ途上にある私なぞが、この小説を書くことで、読者の皆様を知ったかぶりして、一宗教団体に引き込もう、宗教の説教をしよう、などと大それたことを企てるものではありません。
今科学が大変発達し、人間は宇宙の仕組みや地球の内部のことまで研究するようになりましたから、自分の目に見えるものしか自分は信じない、と主張する人が増えて参りました。
そのような方に反論させていただきますが、人間は一人で生きているのではなく、社会的な存在であることは誰も異存はないでしょう。そして、あの人とはこれから距離を置きたい、と思う人がいるかと思えば、あの人のやろうとされていることには、なんとか助力したいものだ、と思う人もいます。それはその人の外観を客観的に科学的に計測したのではなく、人間と人間が共に行動した時に、心と心が触れ合うことで出て来た感情ではないでしょうか。つまりそれこそが、この世は目に見える物質の社会、現象の世界と、全く別の心の世界が重なって存在している証拠ではないかと私は思うのです。
嘗ての私のように、もしもあなたが、今の格差社会の勝ち組にはなれず、貧に苦しみ、そんな境遇から一日も早く脱したいと様々なことに挑戦しながらも、もしも成果が得られていないならば、目に見えない方の世界が、目に見える世界と重なって存在するのだ、ということについて、ちょっと考えて見たらどうでしょうか。もしかしたらそこに今までどんなに努力しても見いだせなかった解決方法が探せるかもしれないのです。
この小説は父親から継承した寝具製造業を営みながら、昭和五十九年から霊園開園の平成六年までの、まるで蟻地獄に落ちたように、どんどん貧のどん底に落ちていった十年間、私の人生の失われた十年間でありますが、そんな境遇から、私自身の心の在り方が変わることで、周りの世界がどんなに変わったのか、をお話ししようと自分の体験をモデルに書いた小説です。あくまでもこれは小説、フイクションでありますから、中に書かれたことがらも、登場人物のキャラクターも、総て話を面白くするための創作や脚色だとご理解いただき、これは一体誰のことなんだ、これはどこの会社のことなんだ、などと決して詮索はされないようお願い申し上げます。

(平成三十年一月十五日記)