末の娘が結婚しました

 私には娘が二人います。長女静代は大学を卒業後、金融関係の会社に暫く勤務した後、私の仕事を手伝うようになりました。第二霊園、美原東ロイヤルメモリアルパークが開園した翌年の平成20年4月に税理士を目指して会計事務所に勤める瀧田哲郎君と結婚し、大津市内に住む主婦となった後は週二日霊園に来るだけになりましたが、PCとLANを使っての在宅勤務でカバーしながら霊園の墓地管理と両霊園の入出金を管理する関西メモワールの経理の仕事をしています。

 姉より6歳下の次女美里は大学を卒業後、哲郎君が勤める会計事務所にお世話になっていましたが、この10月2日、学生時代にアルバイト先で知り合って、お付き合いを続けてきたスポーツ用品メーカーの社員と結婚いたしました。結婚披露宴で、締めくくりには定番のように入っている、新婦が両親に贈る感謝の言葉の時間、私たち夫婦宛てに、育てられたことへの感謝の思いを綴った手紙を、娘が涙ながらに読むのを聴いておりますと、改めてこの娘が生まれ、この娘を育ててきた時代の思い出が脳裏に蘇って参りました。

 私はこの霊園事業をする前、父が経営する寝具総合メーカーに勤務していました。結婚して長女が生まれた頃は、製造部門だけで年100億の商いをし、製販合わせ従業員が千名いたという全盛期でしたが、それから暫くして売上の柱だった毛布事業が行き詰まった為に、全般的に製造卸の継続が不可能となりまして、鶴見の肌ふとん工場、大阪販社の拠点、泉州の毛布工場、守口の倉庫と次々に不動産を売却し、寝具業界への製造卸を一切やめることになりました。次女が生まれた昭和58年は、社員数を絞り込み、唯一残った京都八幡の工場を稼働しての高級寝具の訪問販売をする事業部だけを残して、幹部の私が会社の再建に必死だった時代です。長女も次女もその養育は妻に任せきりでした。

 しかし消費者への製造直販も長くは続かず、昭和62年になると事業部は廃止されましたが、それでも会社は潰す訳には行かず、私は一人で受注の営業をしながら、数十人の工員がいる八幡の工場を稼働することになりました。以後、平成6年の霊園美原ロイヤルの開園と共に霊園事業に転業するまでの10年間、私たち夫婦は経済的に苦しみながら、この二人の娘を育てて来ました。否、私たちではなく育てたのは妻だったと言うべきでした。長女が幼い時は阪急のポテトチップスのデニムを着せ、休みの度に野外に連れ出して遊んだ思い出が沢山あるのに、次女については何故かそんな思い出が記憶にありません。

 もしかしたら次女にも同じようにしながら、その時期の私の心がここにあらずという状況だったのかもしれません。どちらにしても次女には父親として大変申し訳ないことです。愛するということは自分一人の思いだけでは意味をなさず、相手に表現してなんぼのものなのですから、できることなら、これまでのことを父親としてやりなおしたいくらいですが、しかし失われた時間は戻りません。そしてその娘はもう嫁いでしまいました。