なぜ総ての人の願望が神に届かないのか? 前編
前回、私の会社の従業員若干名を募集する件に触れましたが、予想を超える多数の応募があった中、地元企業に長い間勤務しておられたのに突然年末に解雇された方が驚く程大勢おられ、世界金融危機の深刻さをまざまざと知ることになりました。 この不況の原因は先進国の金融業者が没頭したマネーゲームの破綻から始まったことですから、その総ての精算がなされたところで景気が元に戻って来ることを期待したいものです。企業が人を減らすのは赤字を出すことよりも、赤字による資金ショートを恐れてのことではないでしょうか。せめて企業への金融さえ正常化しておれば、これほど極端に人件費圧縮が計られなかったのではないでしょうか。
書店を見れば、この不況を乗り切るため、企業家や企業幹部の経営方策を説いた書籍が山積みになっています。現代人はこのような経済危機から逃れるために経営戦略の書籍を読んだり、成功者の体験談を聴いたりするものですが、昔の人なら先ずは神様に不幸からの脱出を祈ったのではないでしょうか。昔に限らず、今でも神様に願いを聞いていただくため、お賽銭や祈祷料を弾んだり、お供え物を祭壇に捧げたりします。
神様にお供えをすると言えば、旧約聖書に次のような話があります。ユダヤ教やキリスト教では、神が最初に土から創られたアダムが人類の始祖だとなっていて、次に妻のイブがアダムの骨から創られました。この二人はご存じの通り、蛇に誘惑されて禁断の木の実を食べたことで、神から流れ入る智慧を惑わせる人間智がつき、それを知った神に咎められ、死もなく、病もなく、悩みも無く、全ての動物が相食(あいはむ)ことなきエデンの楽園から追放されてしまいました。
自己の霊性を忘れ、肉体的存在だと思うようになった二人は、その後夫婦生活を営み、二人の男児をもうけました。一人は農夫のカイン、一人は羊飼いのアベルとなりました。二人ともよく神を敬い、慕いました。最初の収穫物を得たとき、それぞれに祭壇を設け、カインは収穫した農作物を捧げ、アベルは羊の肉を捧げ、感謝の祈りを捧げようとしました。ところが神様はどういう理由(わけ)か、アベルの羊肉は喜んで受け取られたのに、カインの野菜は拒絶されたというのです。神が供え物を受けられるかどうか、とは穿(うが)った見方かもしれませんが、神様が供え物を捧げた人の祈りを聞かれたのかどうかを象徴的に言ったのだと思うのです。では同じように祈ったのに、なぜ神様は一人の祈りは聞かれ、もう一人は拒絶されたのでしょう。そう言えばこの二人に限らず、この世のすべてがその通りに見えます。オリンピックに出場した選手も、金メダルがとれるよう祈った選手と、実際に金メダルを取った選手とがぴったり重ならないのは誰もが知っての通りです。どんなに神様に真摯(しんし)に祈ろうが、その祈りが成就(じょうじゅ)しなかった人は実に大勢いるではありませんか。
であれば神様などというものは人間の想像の産物に過ぎなく、そのような不確かなものに祈っても何の足しにもならないと現代人なら考えるべきなのでしょうか。そう断言してしまう前に、もう少し聖書が言おうとする処を考えてみましょう。聖書には、羊飼いアベルの礼拝を受け入れた神様が、なぜ農夫カインは拒絶し給うたのかの説明が、その章の中を探す限り、残念ながら一切ありません。 アメリカのJ.スタインベックの小説「エデンの東」の中頃に、産んだばかりの双子の男の子を置いて妻に逃げられたアダムという実直な農夫と、彼が農場主になるのを助けたS・ハミルトンという男が、この不運な息子達にどんな幸運な名前を付けようかと聖書をパラパラとめくりながら、カインとアベルの物語の謎について語り合う場面があります。ここに登場するS・ハミルトンは、J・スタインベックの曾祖父にあたります。 一方「エデンの東」はエリア・カザンが監督し、ジェームス・デイーンが主演した映画としてよく知られていますが、映画になったところは作品全体から言えば、後ろの三分の一だけなので、映画を観ただけでは原作者の意図が分かりづらくなっています。
祈りが全て聞き届けられないのなら神などはいないと考える人もいるでしょうが、それよりも神様の存在は信ずるけれども、人間の運命は神様の計画(神の御計らい)に従っているのであって、各人がいくら祈ろうが、神の意志に反しては運命を変えようがない、と冷めた目で人生を見ている人が案外多いように感じられます。では果たして本当にそうなのか?という疑問を、人の運命を神の御計らいの枠中に押し込めようとする人々にぶつけたかったのがスタインベックなのではないでしょうか。聖書には説明がないけれど、神は愛なりと称されながらも、人の祈りを拒絶される場合があるのなら、それは何か正当な理由があるからではないか? それこそがスタインベックが「エデンの東」のテーマにしたかったことだったのではないのでしょうか。 カインはこの後、弟アベルに嫉妬して、自分の農場に誘い出し、彼を殺害しました。「神への不満を表わせば、罪を犯す人となろう」と神が予言された通りになりました。人は神の「御計らい」には従順であるべきだ、と説く神職に就く人にも、神の「御計らい」に不審を持てば罪人にされるぞと恐怖心を植え付けて布教をする人さえ現れる始末です。
一方「エデンの東」の双子の兄弟も、父親の愛が兄のアロンに傾いたとき、弟キャルはその嫉妬の矛先を兄に向け、亡くなったと教えられてきた母を聖母マリアの様に敬愛してきた兄に、実は母が生存していて欲望にまみれた醜悪な生活をおくる実態を見せました。その結果、アロンは信仰と人格を瓦解させ、兵隊に志願するとヨーロッパの戦場にて還らぬ人となりました。愛する息子を失ったアダムの精神的打撃は大きく、脳神経が麻痺してものも言えぬ寝たきりの人となりました。介護する召使いから、兄弟・隣人を愛さぬ罪の重さを教えられたアダムは、兄弟殺しの罪に苛(さいな)まれ、今自分のもとを去ろうとするキャルと和解し、自分の介護を彼に頼む意志を示すところで物語は終わります。この親と子の不和の中に神が祈りを聞かれない正当な理由があるのだとスタインベックは気づいていました。この続きは私自身の体験を入れて次回にお話ししましょう