美原東新管理棟の竣工(仕事と宗教) その5

 私は霊園を経営する神道系の宗教法人の代表でありながら、墓地を使用下さるお客様の要望に応え、お客様さえ喜んで下さるなら、霊園の盂蘭盆・彼岸などの霊供養については、仏教の寺院のご住職にその先導をお願いして参りました。また霊園内の主たる永大供養墓についても仏教寺院と提携して利用者を募って参りました。表面的には、これはこれでうまく行っているようにも見えますが、これでは国から「神道系単立宗教法人」として認証を受けた独立した宗教団体の存在が世間からは見えなくなり、これはこれで又新たなる問題が発生するようにも感じられます。


 私は霊園の財産を公益財団である宗教法人に容れて管理しています。これ自体はあるべき姿で問題はありません。しかし宗教法人とは、宗教法人である前に宗教団体であります。宗教団体ではないのなら、いくら霊園事業を行うからと俄に宗教法人設立を申請しても、国(文化庁)からそれは認められません。問題はここなのです。このようにお寺でも神社でも新興宗教であっても、国あるいは社会から個々の名を持った独立した宗教者(宗教団体)として認められなければ、この国では存続することはできないことです。国や世間から認められるには、我が社寺、我が宗派としては、このように考え、このように主張すると、他の宗教団体との違いや個性を、ことさら吹聴しなければならないのです。謂わばそれが存続する為の宿命のようなものです。


 突き詰めて考えるなら、このように法と社会が、宗教団体の存続には他との相違や個性の強調を求めるから、星の数ほど宗教法人ができる現象に繋がって行くのです。宗教家が力説すべきは、人間は肉体的存在(物質的存在)ではなく、精神的存在なのだと、それも個々バラバラの精神存在ではなく、大宇宙の普遍の意識に繋がる霊的存在なのだ、ということなのであって、自己の所属する宗教団体(寺・社・教会・宗派)の、他の宗教団体に対する優位性ではないのです。宗教人同士が優位性を相争っている内に、我が国では無宗教の人が増え、この世は何をしても自分だけ物質欲、肉欲に充たされる人生をおくらねば損をするのだなどと、人生を刹那的に考える人があまりにも多く出て来ています。


 私の宗教法人でも行政の方針に従う以上は、他の宗教団体とは違う独特な教えを説き、その独特なる教えに共鳴下さる信者を増やさなければなりません。そういう行動を起こしていない私の宗教法人は、法律や行政指導を厳密に解釈するなら、存続が危うい宗教団体と言えないでもありません。しかしあまりにも刹那主義に生きる国民が増え、経済的困窮だけで人生の総てを絶望する自殺者が出るこの国の現状を見るとき、宗教を政治から排し、教育からも排してきたこれまでの政策を考え直し、宗教人を集める宗教団体が、国民の倫理観を高めたり、国民に真の幸福を計る価値観を持たせると言った、本来のあるべき姿に戻れるように、国の政策そのものを考え直すべきところに来ているのではないでしょうか。変な宗教に騙されて不幸になる人もいますが、物質的豊かさだけに幸福を求めて不幸に成る人の方が何百倍、何千倍も多いと思うのです。