日本人の和の精神 完結編 「建国記念の日に」

 2月11日は日本国の初代の天皇、神武天皇の橿原の宮での即位の日を記念する国民の祝日だったのですが、大阪の都心部でも朝からの思わぬ積雪で、テレビニュースでは記念行事は採り上げず、積雪被害ばかりを放映していました。羽曳野丘陵の西端にある私が経営する霊園もお墓参りがで困難なほど雪が積もりました。画像は当日、美原ロイヤルにて撮影した風景です。いまNHKの朝のドラマ「てっぱん」という放送がありますが、面白くて私は衛生放送で出勤する前に7時半から毎日欠かさず観ています。このドラマが何故面白いかと言いますと、ストーリーの展開に先行する形で、登場人物の心理の動きを視聴者に分かりやすく見せるところに注目するのです。人の心を表現するのは無論このドラマだけではありませんが、人の行動に先駆けて、登場人物の心の動きが重なって進行する様の表現が特にこのドラマでは強調されています。

 私達の日常生活を振り返りましても、たとえば日記をつけるとすると、誰がいつどこで何をしたかということだけを記すこともできますし、誰々の考えはこうだった、しかし自分はそうは思わない、というように自分と周囲の人の心の世界を記すこともできるでしょう。即ち私達はアクションの世界にも住み、同時にマインドの世界にも住んでいることの証です。ただし心の世界と一口に言いましても、ふと何かを思う「心」もあれば、それが常識かどうかを認識する「心」もあって、また「心の奥底」から自分を反省す思いが滲み出てきたり、心の深いところから論理的思考からではなく「直覚的」にアイデアが出てきて、悩んでいた問題がふと解決することもあります。後ろ二つのような心の奥底の働きを「霊性」ということがあります。テレビドラマを引用して何が言いたいのかと申しますと、確かに「古事記」や「日本書紀」に書かれた日本国の建国の物語は考古学的、歴史学的研究とは矛盾だらけで真剣に読む価値もないと言う人がいるかもしれません。しかしその行間に潜む古代人の精神をこそ、それこそ私たちの魂の奥底にある霊性によって読まなければならないのではないかと言うことです。

 つまり「古事記」「日本書紀」に著された建国神話は、我々が今住んでいるこの国の誕生と何の関係もないかと言うと、それも誤りであるのです。そこに記された往時の日本人が神の直系の子孫であり、往時神の山、三輪山の祭祀者であって出雲建国者の末裔の姫君を皇后にされた天皇を中心者として一つに纏まろうと倭国を創ったという「建国理念」そのものは真実だからです。ですから私達は「古事記」「日本書紀」の建国神話に記載された個々の記事が歴史的根拠が乏しいなどと軽んずるのではなく、その中を貫く建国時代の日本人の精神こそ読み取らなければなりません。そこで皆様にお示ししたいのは、私が信奉する谷口雅春先生(生長の家創始者)のご著書「限りなく日本を愛す」(日本教文社)の88頁には「未発の中(ちゅう)を先ず捉えた日本民族」と題する章の中の文章なのですが、次のように書かれています。

 「日本民族がその民族の理想として捉えたところの理念は、先ず古事記の冒頭の、『天地の初発(はじめ)の時、高天原に成りませる神の名は、天之御中主神、・・・』という一節にあきらかにあらわれているのである。先ず把握されたものは何であるか。日本民族は仰いで天を見、伏して地を見たのである。そしてその天と地との分かれている根源または始原(はじめ)なるものを反省したのである。そして、その根元が『一(はじめ)』であり、『御中(みなか)』であることを捉えたのである。」
それまで殷・周王朝や秦漢帝国崩壊後の中国や新羅に統一される以前の朝鮮半島の諸国のように、幾多に分かれて争っていた弥生人が、争いを止め、中心者として一人の王様を崇め、みんなで共立したときに、その精神、即ち「御中」の精神、生長の家で言う「中心帰一」の精神が神の御心であって、そこに争いの無い平和の国の建国の鍵があることを霊性の直覚によって悟ったのであります。これを結論にこの一連のテーマを終了させていただきます。