日本人の和の精神 その5

 古代中国の歴史書、三国志魏志倭人伝に表わされた3世紀前半の倭国に登場する女王国「邪馬台国」(それはヤマトと読みたい意図的表記変えで、元々は邪馬壱国だったとする古田武彦氏のような研究家もいます。)は、未だに北九州なのか、奈良県の巻向なのか、は結論が出せずにいます。昔は3世紀前半の倭国の中心地は北九州なのか畿内なのかと論争されていたのが、巻向の発掘が進むにつれ、倭国の往時の中心地は既に奈良県の大和だったことに異論を唱える人はいなくなっても、魏の歴史書に表れる「邪馬台国」が倭国の中央政府のような国だったのか、それとは抗う北九州の地方国だったのかの論争の結論がつかないのです。

 様々な古代史の書物に目を通しますと、古代日本のことは実に謎だらけです。奈良県桜井市三輪山の大神神社の神様についても、ずうっと昔から出雲の建国者、大国主の精霊である「大物主神」(物はもののけの「もの」)だったと思っていましたが、異論を唱える学者もいて、最初は太陽の神だったのが、後に地域の建国者の祖霊神に代わったのだとか、奈良の大和の建国者の祖霊神がいつの日か、出雲地方の建国者の祖霊神と同一視されるようになったのだとか、諸説紛々であります。なぜか我が国では文字で記録することが長くなされませんでした。口伝で伝えられた神話や伝説を、7世紀になってから時の天皇や為政者達が関わって文字になったのが「古事記」や「日本書紀」なのですから、今日の研究者はそこに書かれていることを根底から疑ってかかる人ばかりであります。

 八百万(やおよろず)の神様と言いながらも、弥生の日本人は神様も自分たちの都合の良いように統合したのでしょうか。弥生時代なら、たとえ縄文人の子孫でも、全ての人が稲作をしていたのでしょうが、豊作を願い、誰もが太陽神に祈ったことでしょう。太陽神と一口に言っても部族の数だけ太陽神の名前があったかもしれません。周辺の部族を統合し、大きな部族になった首長は、太陽神を初め、神様の名前を統合しながら、自分を周りより偉くみせようと自分の祖霊神は太陽神の弟だった、などと宣言したかもしれません。するとそういう部族を吸収して倭人の総てを纏める首長になった人は、自分の祖先を太陽神(天照大御神)直系の子孫だと言うしかなかったと思うのです。

 様々なルーツがあった弥生人は無数の小さな集団に別れて最初は争っていたのでしょうが、次第に相互理解と和解が進んで、一つの国として纏まって行ったのですが、ただ相互に仲良くなったからとて平和に纏まれたのではなく、絶対的な「中心者」の登場があって、全体に「中心者」への畏敬の念が浸透し、それぞれの信ずる神の統合が行われた、というプロセスが倭国あるいは大和国建国に必要だったのだと私は考えます。附言するなら、そこで国の首長自身を含めて、国民の総てが、それぞれの祖国、出身地への望郷の念を封印し、口を閉ざさなければ平和な統一国家を建国できなかったのだと、そしてそれらの総てが日本人の和の精神の根源だと思うのは、私だけの考えなのでしょうか。