現代霊園に変身への挑戦 その(1)

  

 私共の霊園経営は、たまたま南河内郡美原町(現在の堺市美原区)小平尾の丘陵に、遊休不動産として数千坪の山林を持っていて、開発調整区域の線引きを外して宅地開発を試みて失敗したところに、平成3年の春、大阪市内の石材店、丸長石材様に開発の方向転換を薦められたことで始まったのでした。葬祭ビジネスには全くの素人の私共は、慣れない霊園開発を先達の丸長石材様の指導を受けて推し進めて参りました。往時、大変厳しかった府の許認可条件をようやくクリアして、造成工事をしながら、竣工検査が終わった墓地から使用者を募るという、異例の泥縄の様な開園に漕ぎ着けたのは、申請から3年が経過した平成6年の春でした。


 霊園の開園とともに、輸入品に押され斜陽産業となった本業の寝具製造業を廃業にし、工場も手放すことにして、私共は霊園事業に転業いたしました。とは言うものの、全くの素人だった私共は、開園から暫くの期間、先達である丸長石材様に、霊園の管理・運営をお任せするしかありませんでした。その間、私は霊園経営を自らの天職とすべく真剣に勉強させていただきました。父が不治の病に倒れ、私が二代目霊園施主を継承した翌年の春、丸長石材様から霊園の管理運営の仕事が戻って参りました。本来あるべき姿だとも言えますが、往時の霊園では墓地の使用率が低く、入って来る墓地管理料より出て行く運営費が大きかったことで、丸長石材様も音を上げられていた、というのが実情だったのです。


 十数年前の民営霊園は、関東と関西では大きく違っていました。関東では霊園の開発予算のかなりの部分を立派な管理棟の建築に回し、霊園の差別化を図るため、園内の美観や花壇の維持管理には経費を惜しみなく使い、またそんな付加価値がついた霊園を評価する顧客から、少し高めの墓地管理料を集めては収支バランスをとっていたのです。私は何度も東京、千葉、神奈川に行き、そのような先進の霊園を自分の目で確かめて来ました。幸いにも父が、往時の関西では珍しい、二階建ての立派な管理棟を建ててくれていましたので、次は園内の景観を美しく変えて行こうと、関東の霊園に倣って、墓参客に喜んでもらえるよう、様々な改良工事を図ったり、花壇を造ったりしました。


 霊園の経営は、本来墓地管理料でその維持費を賄うべきである、という考え方からすれば、私の墓参客様に良かれと思ってやったことでも、その原理原則を逸脱したものでありました。私は設備投資を増大させたことによって、収支のバランスを崩していたことで、そのマイナスを埋める為に墓地の永代使用料をつぎ込んでいました。これは墓地使用を促進し、顧客満足度を上げるのには役だちましたが、美原ロイヤルの墓地の販売・使用が進んで、第二霊園を開発しようと府に相談に行った平成18年の暮れに、私の経営方針は誤っていると府から厳しく指導を受けることになりました。
(画像は第二霊園が開園した平成19年頃の美原ロイヤルメモリアルパークです。)