日本人の和の精神 その4

 日本の古代史を研究する中で、私たち日本人はこの列島に何万年も住んできた縄文人の血よりも、縄文晩期に半島や大陸から渡来した人々の血の方が濃く入っているという意味のことを言ったものですから、お前は歯に衣着せず、随分思い切ったことを言う奴だと非難される方もおられるでしょうが、東洋哲学の研究者であり、聖徳太子の研究では第一人者だと思われる梅原猛先生も、そのご本の中で次のようにおっしゃっています。私が思いつきで唐突なことを言ったのではないと分かっていただける筈であります。

日本の国家の出現は、やはり弥生時代の稲作農耕文化の渡来によってであるが、この稲作農耕文化はただの文化だけの渡来ではなく、そのような文化を持った人間の渡来であり、・・・おそらく戦国時代に、秦と争ったいずれかの国の、多分揚子江流域に住んでいたはずの国の遺民が中国を追い出されて日本に来たものと考えられる。そういう、言ってみれば亡命渡来民が初めて土着の日本人に稲作農耕技術とともに国のつくり方を教えたのであろう。」(小学館 梅原猛著作集2「聖徳太子(下)」583頁)

 ただし私は、この国の建国に渡来人たちの考えだけが用いられたとは思わないのです。むしろ先住民だった縄文の人々が、その多神教と和の精神とによって、様々な故国を持つ弥生の混血人たちを纏めるのに積極的なイニシアチブをとったのではないかと思うくらいなのです。そうでなければ弥生時代に生まれた新しい国は、その祖国が、その始まりはどこの地域のどこの国だった、というような言い伝えが残る筈だと思うからです。しかし弥生の人々はそれについては口を噤んでしまい、神話では我が国は天上の高天原という空想の世界から天降った太陽神の子孫が建国することになっているからであります。

 ここから後は素人の私の想像による推理で申し訳ありませんが、我が国の建国は恐らく何段階ものステップを踏むことで成し遂げられたのだと思います。そうして天皇陛下のご先祖である大和の大王家による倭国建国は、その最後のステップだったのではないでしょうか。恐らくは先住の縄文人と半島から渡来した人々との和解と混血の賜物で、最初の統一王国が出来たのは出雲地方だったのでしょう。やがて出雲王国は山陽地方から近畿にまで拡がり、いつしか奈良県の三輪山でも出雲の神様や、出雲王国の建国者(大国主)の精霊(大物主神)を祀ることになったのだと考えれば矛盾はないかと思います。

 その後はNHK(「邪馬台国を掘る」1月23日夜放映)が言うように、異常気象が続いて農業は凶作続きとなって、為に大和巻向か北九州のいずれかを拠点とする邪馬台国の人々は、それまでの信仰(出雲の神への信仰か)を捨て、中国から伝えられた道教(鬼道)の巫女である卑弥呼を女王として、新たなる和解と共立の王国を造ったのかもしれません。私が主張したいのは、畿内の弥生文化圏もやがて新たなる九州勢力によって政権がとって替わられるのですが、それでも嘗て縄文人と渡来人とが和解のベースとして創り上げた宗教「神道」が全否定されることなく、出雲の神の上に太陽神、天照大御神をおくという部分修正によって、太陽神直系の子孫とした大王様を中心者として崇めるようになったのではないかということです。それも邪馬台国の時代(3世紀前半)の後か、先かを断定するのは、今なお続けられている吉野ヶ里や巻向の発掘作業を暫く見守る必要があるようです。