美原東新管理棟の竣工(仕事と宗教) その4

 前回は、昔「霊」と書かれた掛軸で霊園物故者の供養をしたときに、その時に導師様としてお呼びした浄土真宗のあるお寺様から、真宗では「霊」を認めないのにこんな掛軸はけしからんと叱られたことをお話しいたしました。調べますと、元々釈尊の教えには「霊」についてのものはなく、死後の世界についても確たる教えが無かったようで、それが何千年もの時間の経過の中で、インド古来の宗教や風習を呑み込んで、仏教は今日の形に変遷・発展したのだと思われます。そうであるなら、死後の霊を認めない浄土真宗は、結構仏教の原理主義者なのかもしれません。しかし私たちが自分のことを肉体ではなく霊的存在だ、と言うときの霊と、幽霊の霊とは、よく考えれば似ているが違う概念だと分かります。


19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍した哲学者、鈴木大拙は、人間の宗教意識を「霊性」という言葉で表現し、人間の「精神」と大別しました。彼はその違いを、「精神」には倫理性があっても「霊性」はそれを超越し、「精神」は分別意識を基礎としても「霊性」は無分別智であって、「霊性」の直覚力は「精神」のよりも高次元である、と説きました。少し難しい言葉が並びましたが、要するに「霊性」(宗教)とは、緻密な思索の積み重ねの果てに得られるものではなく直覚的に知る世界なのです。だからこそ、鈴木大拙は、「霊性」(宗教心)は、民族がある程度の文化階段(レベル)に進まぬと覚醒されぬ、とも言っています。具体的に日本国民が霊性(真の宗教心)に目覚めたのは、源平合戦の後の中世に入ってからと主張しているのです。


人間は肉体ではなく「霊」的存在であると考える人(唯心論者)には、現象世界(物質世界)こそあるように見えて無い世界であって、逆に「霊界」は理念的に実在する世界なのですが、その立場から見ても、幽霊の方は、現象的で、感覚的で、曖昧な存在に見えます。ですから釈尊が「霊」について明確に肯定しなかったのであれば、それは当然ながら「霊性」(宗教)のことではなく、幽霊の方だったということになります。ただ幽霊の存在を感じたとの体験を持っている人が、少数ではあっても現実にいますから、全くそれを幻覚だと否定することもできません。


宗教を嫌う理由として、幽霊や死後の世界など、生きている自分たちには確認できないことを、ああだ、こうだと言い含めては迷信やまやかしの世界に人を誘って金を奪う企てに感ずるから、というものがあります。せっかく哲学者が、宗教を精神のハイレベルな直覚だと言っているのですから、私たちは「宗教」の意義を正しく理解しなければなりません。要するに宗教とは、死者の魂を救うというよりも、人間とは何か、何故生きるのか、を直覚的に悟る、精神の一大高揚なのだと私は考えています。