第五章(和議倒産) その5 

(二度目の登場だが、筆者が勤務した前の会社の泉州忠岡町にあった毛布工場。敷地は三千坪だった。手前の二棟は製品倉庫。昭和四十八年四月に竣工し、昭和五十五年の末に破綻し、翌年六月に従業員込みで泉州の毛布の産元商社に売却された。)

野須川寝具忠岡工場が竣工し、毛布事業部が開設された年は、その秋に始まった世界的なオイル・ショックの被害を受け、散々なスタートになったが、オイル・ショックは野須川寝具にとって悪いことばかりではなかった。
その証拠に二年後の五十年(一九七五年)八月期は、国税局から利益四千万円の翌期繰延が指摘されるまで、業績は順調に伸びる結果を見たのだ。
実は皮肉にも、オイル・ショックに始まる、出来上がった毛布を全量帝都紡績あるいは帝都紡績が指定する商社で一旦買い上げする(備蓄生産)制度が、毛布事業部の収益安定化に大きく貢献したと言えるだろう。
これは工場開設以来、牛山が帝都紡績に要求してきたことだが、帝都紡績は断固拒否を続けたものの、未曾有のオイル・ショックが起こった為に石油製品価格をコントロールする必要から前言を翻し、臨時に毛布の備蓄に応じたのだ。
だがオイル・ショックが沈静化した後も、毛布の生産備蓄がそのまま続いたお蔭で、野須川寝具は毛布の販売を後回しにしても、年中を通じて生産に専念できたのである。牛山はそれが自分の手柄だと勘違いしていたかもしれぬが、俊平社長と帝都紡績のアクリル事業を差配する谷本克彦常務との親しい人間関係によるものと考える方が正しいだろう。だから野須川寝具の毛布生産量に、販売量がなかなか追いつけないという慢性的な供給過剰の状態が、ずっと付きまとうことになるのだ。

俊平が毛布の販売実績を上げる為に太平洋商事東京本社にも自ら出張し、毛布販売に援護射撃の労を惜しまなかったのは当然のことだが、寝具の山本チエーンの本家本元である東京の山本産業にも、寝装事業部提携先の京都山本にも、俊平は何度も頭を下げては、テイボー毛布の販売を依頼した。
だが一方では仲間卸を進める方針と矛盾するが、野須川寝具のテイボー毛布代理店作りにも、密かに動いていたのである。
俊平の事業方針は、度々このような分裂症のような矛盾した一面が現れる。リスクへの保険だと俊平は言うかもしれないが、説得力はないだろう。
その毛布の販売代理店の中から、事業内容を大幅に変えて、後の北海道カシオペアや、九州カシオペア、東北カシオペアが誕生するのだが、それは二年後の話である。
翌年の昭和五十一年(一九七六年)、俊平の毛布の代理店の経営者の中から、野須川寝具の社運を後に大きく揺るがす男が登場する。
俊平とは、同じ商社の出身で、俊平の妻、美智子とほぼ同じ歳の坂本功という男である。
俊平が滋賀県の商業学校を出て、最初に勤めた大阪船場の繊維商社、船栄は、戦後、総合商社となって日栄と名を改めていた。
日栄の毛布の販売を一手に引き受ける課長をしながら、日本全国へ、アクリル・タフト毛布の普及に努めた坂本功は、昭和五十年、同社を辞めて毛布の卸問屋を創業した。営業力は人並み外れた男だったかもしれないが、経営能力は違ったと見えて、翌年には早くも会社の資金繰りが行き詰まり、自ら野須川寝具の毛布の代理店に名乗りを上げて来たのは、野須川寝具の資金援助を期待してのことだろう。

俊平が会って見ると、坂本は子飼いの幹部、牛山や井川とはタイプの違う人間だった。牛山も井川も、俊平には忠実で、絶対服従であったし、歯に衣を着せず、ずけずけと俊平に自分の考えを延べ、反論も出来るフレンドリーな部下であったが、仕事の為に自分の気を遣うようなことはしないタイプだった。
一方、銀行や商社の幹部に細心の気を遣い、常に心を配って、善き人間関係を作ってきた俊平の努力で、野須川寝具がここまでやって来たことは、誰よりも知りながら、この二人はそのようなことはボス任せで良いと考える程、俊平に甘えていた。
だが坂本功は全く違った、よく気がつく男だった。商売に利用しようと狙ったターゲットの心を掴む為なら、清濁合わせ呑み、恥を恥とも思わず、法を犯してでも、何でも実行する男だと俊平は見抜いた。
坂本の姿は、鏡に映る俊平の姿でもあった。業界では人垂らしの俊平だとよく言われたが、坂本も負けず劣らずの人垂らしの男なのだ。
資金を出すなら、坂本の会社は潰してしまい、従業員を含め、その会社を買う方が良いと判断する。
最初は牛山常務の下で、毛布の販売の責任者にしようと思っていた。
ところが、事業部の経営者としては優れていても、営業が苦手だった牛山は、それ故に帝都紡績の人々から好かれず、人気は無かったが、人付き合いの良い坂本が毛布の販売を担当するようになると、帝都紡績側は二人を比較し、自分たちに都合の良い坂本を毛布事業部の長にしろと盛んに言うようになったのだ。
東京の寝具業界コンサルの山崎のアドバイスに従い、俊平が訪問販売事業に乗り出す時である。
俊平は訪販事業部の責任者として牛山を選んだ。しかも牛山から常務の地位を取り上げ、坂本にはいきなり毛布事業担当取締役の地位を与えた。

野心家の坂本は、それに満足せず、更に高い地位を望む。
その頃、五十一歳の俊平は、某紡績会社の受付嬢に心が奪われていた。彼女はこの時、龍平の二つ下、二十五歳である。用事もないのに俊平は足繁く、その紡績会社に通うようになり、彼女も俊平の恋情に気づいて、いつしか互いを意識しあうようになった。だが俊平は彼女をデートに誘うなどは、その立場上出来ない相談だ。
牛山も井川も早くから気づいていたが、いくら世話になったボスの為とは言え、一肌脱ごうとは思いもしない。仕事には関係のないことだと、頭の中で一線を画したからだ。
ところが坂本の行動は違った。彼は俊平の心を掴もうと、彼女を口説きに行ったのである。
坂本のお蔭で、俊平は彼女と二人きりの逢瀬を楽しむ機会を得た。
彼女は会社を退職し、俊平に生活を見てもらう、思われ人になったのは、そのすぐ後だ。
俊平は以後、会社が倒産の危機に直面し、やむなく彼女を他人の嫁に出すまで、毎週水曜日、彼女の家で夕食を共にするのだった。
二人の共通の趣味はゴルフだった。内緒の恋人と一緒にゴルフがしたいと願う、銀行や上場商社の役員たちを、彼女と四人の組にして、俊平はよくゴルフ旅行に誘った。
自分の愛人ですら、商売に利用する俊平だったのだ。

龍平が、父親の隠し事を知るのは、カシオペア関西販社の大東店店長となって、東京から大阪に戻って来た昭和五十四年のことである。

隠し事と言っても、何も知らないのは龍平と妻の智代、母の美智子だけで、社員も、業界の人々も、そして美智子の妹たちまで皆が知っていることだった。
ある日、淀屋橋本社の社長室で、龍平は彼女と同席することがあった。龍平は驚愕する。
会社が、ここに至るまで、辛苦を共にして来た母の美智子を、父親が裏切ったことを知るのも驚きや悲しみには違いないが、それよりも龍平が絶望感を抱いたのは、自分と父親の「業(ごう)」の深さを見てしまったことだ。
父親の思われ人は、嘗て龍平の純粋な恋情を玩具にして、紙屑のように龍平を捨てた太平洋商事石川支社の女性とそっくりの女性だった。
親子は、やはり同じ顔立ちの女性を好むのか、と龍平は嘆息した。
もしも龍平が、あのまま金沢の女性と結婚していたら、ひとつ屋根の下で、俊平と龍平はどうなっていたのだろうか。
龍平は、他人には言えない、おぞましい想像を巡らし、父をいよいよ天敵に思うのだった。
さて、その一年前の秋に戻るが、帝都紡績アクリル総部を統括していた谷本克彦常務は、週刊誌に帝都紡績の次期社長だと掲載されたお蔭で、子会社に左遷された。
以後、野須川寝具と帝都紡績を繋ぐ糸がぷっつりと切れしまい、俊平には打つ手がなく、立ち往生しかけるのだが、その窮地を救ったのも、やはり坂本功だった。
坂本功は奮闘し、谷本常務なきあとの帝都紡績と野須川寝具との結びつきを、遂に誰にも解かせないようにした。

その功績によって、俊平は坂本功を取締役からいきなり専務に昇格させ、人事のバランスをとって、寝装担当の井川常務もこの時、専務にした。
専務になったことで、坂本は野心が更に燃え上がる。次期社長の座を手に入れたい彼にとって邪魔な存在は、訪販事業の東京方面の販売を担当し、次々と出店しては業績を伸ばす、龍平だ。
しかし今やその龍平が、不良売掛金で窮地に立ったことは、坂本には天運だった。
カシオペア販社統括事業部の牛山に相談するが、龍平の地位が失墜するのを望む同じ立場ではあるが、それを画策して自ら手を下すのは御免蒙りたいと、臆病な牛山は拒否した。
しかし龍平からその地位を奪うチャンスが再び坂本に訪れる。メインバンクのなみはや銀行本店から、香川武彦が経理担当常務として出向して来たからて、途中入社者同士で親しい近藤部長が、カシオペア販社統括事業部に移動させられ、販社の監査役になったからだ。
坂本はこの近藤を使って、龍平をその地位から引きずり降ろそうと決意したのが、昭和五十四年(一九七九年)一月だ。
見事にその計画が功を奏し、三月に龍平は野須川寝具グループから追放されることになった。否、追放される筈だった。
ところが龍平は関西販社の田岡社長に拾われ、大東店の店長として、グループ内に残ったのだ。これは坂本の計算外だ。更に計算外だったのは、九ヶ月後、昭和五十五年(一九八○年)一月に、龍平がなみはや銀行の指示で本社に香川常務の下で働く、経理部長として戻って来たことである。

第五章 和議倒産 その⑥に続く