第五章(和議倒産) その1 

(筆者が経営する堺市の民営霊園が苦労の末に目出度くオープンした後、平成十四年に建築した法要施設。今日では関西の霊園で必須の施設であるが、これが建つ頃の関西では法要施設がある霊園は極めて少なかった。二人の女性はモデルさんである。)

龍平が親と同居して早一ヶ月が経ったが、私生活では努めて父親と顔を合わさぬようにしていたことに加え、なみはや銀行からの出向者、香川武彦常務直属の部下となり、なみはや銀行の命を受け、野須川寝具を監査する人間として本社に戻って来たことは、妻の智代や、嘗ての同僚の池上が期待した、同居する内に龍平と俊平の仲は改善されるかもしれないとの期待感はどうやら露と消えてしまったようである。

昭和五十五年の年が明け、龍平は野須川寝具産業の淀屋橋本社財務本部に出社した。
戻って来た龍平を見て、野須川寝具の全社員が驚く。三年前、カシオペア販社を立ち上げる為に意気揚々と東京に出発した闊達な雰囲気が全く消えてしまっていたからである。先ず龍平から話しかけることが無くなり、笑顔を見せることも無くなったのだ。
高齢になった長村(おさむら)専務の地位は形骸化したようにも見える。嘗てカシオペア関西販社の本部と営業部淀屋橋店があった二階に、昨年の六月に移って来た財務本部の部屋の窓際に、長村専務の机と横並びに香川常務の机が置かれ、長村専務の机の前に龍平の机が置かれていた。
その机には、香川武彦がなみはや銀行から出向して来る迄は、経理部長として近藤が座っていたのだ。
その部屋にいる経理部や管理部、総務部の社員たちの総ての直属の上司は以後、香川常務では無く、龍平経理部長に変わったのである。
笑顔ひとつ見せず、黙ったままの龍平は、以前のように「龍平さん」と気安く話しかけられる雰囲気はなく、香川常務よりも怖い上司というイメージだった。
当座預金を置く取引銀行は十行を超え、その中で毎日スムースに資金繰りをして行くことは、最早高齢の長村では困難であることは確かだったが、俊平はそれでも長村を退職させ、なみはや銀行から出向している香川常務に総てを任せる気にもなれなかった。
即ち、野須川寝具の財務部、経理部、管理部は最早実質なみはや銀行のコントロールの下に置かれるも、総務部だけは長村専務の直轄にすることで、少しでも俊平の意向をスタッフ部門にも反映させたかったのであろう。

当座預金残高に余力が無い中、日々の銀行返済や、支払手形決済の為の、手形割引や当座預金の付け替え業務は、結局は銀行実務に慣れた龍平の仕事となった。それ故、龍平も日々の銀行業務から目を離すことができず、販社を閉める為の地方出張は、今カシオペア統括事業部の下で、業務監査部長を務める近藤らに命じなければならなかった。
なみはや銀行山村頭取の、北海道を除くカシオペア全販社を閉鎖、精算し、黒字店のみ残して野須川寝具カシオペア統括事業部の直轄店にするという方針は、香川は俊平に話しただけで、まだ社内には公表しておらず、今は様子を見ながらその時期を待とうとしていた。
帝都紡績アクリル部をバックにする坂本功専務から役員会議の席上で、もしも「その意義がよく分からん」などと言われてしまうと白紙撤回しなければならないからだ。
しかし龍平は、役員会議にかけるのは慎重を期すべしとの香川の考えには、理解を示しながらも、期限が定められた仕事なので、実務処理は全社的な同意を得ることとは平行して急がねばならないと、統括事業部の中にある近藤監査チームを今すぐ地方の販社に出張させようと上司の香川に提案した。
香川はぎょっとした。今これから自分たち二人が頭取の命を受け、やろうとしていることは、言うならば人員整理である。後の世に言うリストラである。
そんな無慈悲なことを表情ひとつ変えずに早く取りかかりましょうと平気で言う龍平に、香川は昨年二月に南関東販社の本社で会った時の龍平とはまるで別人だと気がつく。
香川は部下の龍平に背中を押される形で、役員会議を通す前になみはや銀行の方針を実行に移すことに同意した。

龍平から地方出張を命じられた近藤ら数名の統括部の人間が、龍平のところへ挨拶にやって来た。
「明日から私たちは宇都宮に出張いたします。その前に本社にお戻りになった龍平さんにお尋ねしたいのですが、龍平さんがもしも私たちのことを怨んでおられるのなら、今後一緒に仕事をするのもやりにくいでしょうから、私たちは会社をここで辞めさせてもらっても良いのですよ」と近藤はニタニタ笑いながら言うのだった。
勿論近藤に謝罪の意志はない。事実、一年前のことも、もっと上からの指示で動いただけであったし、指示を出した「上」は、今もなお、なみはや銀行から派遣された香川を凌ぐ勢力を保って、近藤たちを守っているのである。そんな自分たちだと知って、恨み言ひとつ言えず、頭を下げて仕事を頼まねばならないのかと嘲笑っているのだ。
龍平は近藤の問いかけを笑って無視した。
「近藤さん、そんな詰まらぬことは気になさらず、しっかり仕事をして下さるようお願いします。私たちには後八ヶ月しか時間が無いのです。南関東は一番最後にするとして、地方販社一社ずつ手際よくけりを付けて行きましょう」
その頃、北海道カシオペアの河野社長が俊平に札幌から電話してきて、東北販社の動きがおかしいから、自分に仙台に立て直しに行くよう指示してくれないかと言ってきた。三年前に先陣をきってスタートした北海道、南関東、関西の三社の中で、唯一黒字経営を続ける河野社長だったから、俊平は全面的に河野を信頼していたので、「その経費は言ってくれたら、後で札幌に送金するから」とまで言って、河野に仙台店の立て直しを依頼したのが二月のことである。

その頃、香川と龍平は、年度末にカシオペア販社への債権が本当に二十億円以内に収まるのか、試算を何度も繰り返していた。
一月末の貸付残高は十五億五千万円。加えて一月末の販社からの受取手形残高は六億三千万円。この手形は決済日が回って来ても、自力で落とせる販社はなく、そのまま貸付金に振り替わって行くであろうと思われた。投資有価証券(販社資本金に出資した投資残高)は直営販社七社、東北、北関東、南関東、東海、中京、北日本、中国合わせて七千万円。総てを合計すると販社への債権は二十二億五千万円である。八月末に十九億五千万円くらいに持って行くとするなら、今から三億円圧縮する必要があり、残す直営店が七店から十店くらいあって、その資産が一億円と時価評価ができて、貸付金から取り出して直営店資産として計上したとしても、後の二億円は、廃止する店舗の資産(敷金、什器、営業車輌)の売却で作らなければならないという深刻で絶望的な試算結果だった。
問題は、親会社の野須川寝具がそんな方針に出たら、販売店が何店残ってくれるかであった。
香川がなみはや銀行の方針を役員会議にかける前に、統括事業部の取締役牛山本部長が俊平会長に辞表を提出した。理由は自己都合。牛山はもっともらしい理由を並べ立てた。牛山の辞表を渋々受理しながら俊平は、また日本のどこかで寝具訪販会社が出来ないかと心配した。翌月には南関東販社の営業部長の中川が退職した。野須川寝具の社員は、これまで龍平にずっと楯付いてきたこの二人ならば、龍平が役員として本社に戻ったことで、自分たちの将来に希望を失って辞めたのだろうと噂し合った。
三月に入った。不動産投機が止まないことに業を煮やした日銀はショック療法に出る。公定歩合をなんと九パーセントに引き揚げたのだ。龍平はこれと同じことが、七年前にもあったことを思いだしていた。

第五章 和議倒産 その②に続く