第三章(東京と大阪)その1

(写真は現在の大山商店街ハッピーロード)

数日前から梅雨が明け、蝉の声と共に、奈良の西郊地区には、すっかり色が濃くなった青空が拡がっている。
昭和五十二年六月三十日木曜日、龍平たち、カシオペア事業部の立ち上げ組六名が、いよいよ二台の日産キャラバンに分乗し、名神東名高速道を走って東京に移動する前日の朝を迎え、その準備を緊張して行う長い一日の始まりだ。
思えばミツバチ・マーヤでの一ヶ月を働いた分の給与を、冷や冷やしながら取りに行き、藤崎部長から意味深な別れの挨拶をされてから、早一ヶ月半になる。
この一ヶ月半の間、ミツバチ・マーヤから何か言って来ないかと、正直びくびくする毎日だった。だが少なくとも昨日までは、何も起こってはいない。
自分の営業実習の目的で、嘘で固めた履歴書を持って、敵側の会社に入社するなどの話を、もしも寝具業界が知ったなら、どんなに非難されるだろうか、この話は永遠に封印され、業界の誰もが知らないことになってほしいと、龍平は切実に願っている。
そしてまた、この一ヶ月半は、龍平にも、俊平にも、牛山にも、田岡にも実に多忙な日々であった。
龍平は俊平社長から、派遣組六名で、東京に行く前のまる一ヶ月、大阪で試験的に営業せよと命じられたのだ。龍平が中心になって、バン型の営業車二台の購入や、郵便振替貯金の契約や、商品の仕入れや、契約用紙作りを急いで、寝装事業部が使っている守口配送センターを拠点に、月初から昨日までテスト・セールをして来たのだ。

ミツバチ・マーヤでの研修では、そこそこの実績を上げ、四週間残れた龍平と中川に比べ、成績不良で二週間もおられなかった四名は、すっかり自信を無くしていた。龍平と中川の二人が車輌長になって、団地を廻りながら、この四週間みっちり彼らを指導したので、次第に訪販ができるようになった。
しかし龍平にはそれ以外にもすることがある。会社の生産部門に、訪販で扱う商品の性格を理解させなければならなかった。だから何度も生産側と龍平は激論を交わさなければならない。
ミツバチ・マーヤは、敷布団掛布団に肌掛という単純な商品構成だ。だが野須川寝具では、寝具類の基礎的な商品である敷布団も掛布団も作ったことはなく、その製造設備すら無かったのである。因みに六月のテストセールで扱う敷布団・掛布団は、外注で作らせる了解を、龍平は俊平にまで直接談判してまで得なければならなかった。
だが俊平の行動は敏速だ。京都府八幡市に作った毛布の備蓄倉庫を増築し、カシオペア事業部の為の敷布団、掛布団が製造できる重寝具工場を新設するよう直ちに命じる。
それと共に、俊平はカシオペア事業とミツバチ・マーヤとの相違点を消費者に印象付けようと、大阪の寝装事業部と泉州岡の毛布事業部とが共同で企画する新商品つくりを命じだ。
さてヒラの取締役に降格された牛山は、ひとりで東京での事業開始の準備を命じられた。牛山はコンサルの山崎と共に、営業拠点にする物件を探し回る。
往時の関西人には分からぬことかもしれないが、営業マンを集めるなら副都心の新宿を拠点にすべきだった。老舗の会社は東京駅周辺、新興の販売会社は新宿に集まる傾向が顕著だったからだ。ところが山崎は新宿を外していた。新宿が、顧問先ミツバチ・マーヤの営業本拠地だったからだ。

新宿を外して池袋ならまだしも、山崎が牛山に薦めたのは、豊島区から板橋区に少し入った、池袋駅を東武東上線で三つ目の大山駅まで行き、商店街を南に下って川越街道を越えた住宅地の中の、駅から徒歩十分という距離にある、二階建てのコンクリート打ちっ放しの改造自由なビルだった。
家賃は三十万円だから、格安物件であることには違いない。賃借契約を結ぶと、牛山は地元の工務店に、表の道路に面する二階の一角に事務所を造らせた。他の二階のスペースは商品倉庫となって、一階は車が日産キャラバンでも五、六台は置けるスペースがあった。
牛山は近くの郵便局に行き、郵便振替貯金の口座を作り、振替用紙の発行を依頼した。
牛山は続いて自身を含め、七名の単身赴任者の為に、近所を探してマンション七戸の賃借契約を結び、それぞれにエアコンが付くよう電気店に依頼した。龍平がこれから自分が働く営業拠点を牛山に案内されたのは、この頃だ。

さて、俊平はカシオペア事業に進出する了解を帝都紡績や金融機関からも得ようとした。今や帝都紡績は、繊維や化粧品だけでなく、医療、食品、住宅の、生活に関連する他の三業界にも進出し、繊維や化粧品を含む五つの生活関連事業を、五稜郭経営と名付けて宣伝していた時代であったから、子会社の野須川寝具が消費者直販に乗り出すのは歓迎された。だが金融機関は明暗を分け、二位のなみはや銀行は大賛成だが、肝心のメインバンクの上方相互銀行は他行が融資を増やすならそれに合わせてと言った消極的態度を明らかにした。
俊平はメインバンクを変更する腹を固めるのだった。

さてミツバチ・マーヤから龍平が戻った時に、同社から分離派生した「日寝」という会社が大阪にあることを、俊平は聞いていた。俊平は山崎の言うとおりに牛山や龍平にはやらせておいて、別に大阪では、自分がしたいように訪販会社を創ろうと考えていたから、田岡を社長にする予定の大阪のカシオペアが、この日寝を吸収合併することが、その一番早道になると思いつく。俊平は直ちに日寝と接触するようにと、牛山や田岡に命じた。
だが日寝の連絡先は分からない。そこで龍平は「きっと山崎が知っていますよ」と牛山に耳打ちした。日寝の創設にも山崎が絡んでいる、というのが龍平の勘だった。
その勘は的中した。山崎は渋々「私から聞いたとは絶対に言わないでね」と前置きして、日寝の住所や電話番号を連絡してきた。
数日後、野須川寝具側の牛山、田岡と、日寝の東川社長との会社合併を巡る話し合いが始まった。
だが田岡は、俊平とは考えが違った。日寝を丸ごと吸収したら、当然東川も一緒に来ることになるだろうが、新会社のトップがどちらがなるのか、何よりも気になるのであった。田岡は密かに思っている。こんな合併の話など、いっそ壊れた方が良いのだ。それよりも欲しいのは、向こうの営業幹部やセールスだけなのだと。
田岡は合併交渉とは別に、平行して日寝の幹部社員らと接触を開始する。
それから二週間が経過し、今日になった。龍平は愛車日産バイオレットで本社に朝八時半に出勤するなり、東京へ持って行く荷物を営業車に積み込む為、守口の配送センターへと移動した。
龍平はまだ何も知らずにいた。実は前日に、日寝を吸収合併する話は破談になっていたのだ。

第三章 東京と大阪 その②に続く