第四章(報復の応酬) その6

(昭和五十三年、筆者が思い立ったように大晦日の深夜の参賀に訪れた芝の増上寺、今の姿。この参道に長い列が出来ていた。)

十一月の月末近い日曜日、龍平は久しぶりに自由が丘の自宅で休日を過ごした。殆どの日曜日が、休日出勤で休みがとれていなかった。名高いマンション建設会社が建てたビルの二階にある龍平の部屋のベランダから、一階の部屋にだけ付帯する芝生の庭が目の前に見渡せる。小春日和の暖かい日だった。
一階の住人である、テレビや映画によく登場する男優Tが、芝生の上に長椅子を持ち出し、ひとり横になって気持ちよさそうに日向ぼっこをしている。龍平が初めて生で見るTだった。
Tも、自分を見つめる龍平の家族の視線に気づき、起き上がって階上の住人に会釈をする。龍平たち三人も、笑顔でお辞儀を返す。
後から思えば、Tはこの時、映画「ああ、○○峠」の撮影中なのではなかっただろうか。
お洒落な店並み、流行の先端を行くスポーツカーがそこらかしこで見られ、自由が丘での生活は、正に東京山の手ならでは上質なものだ。ここに移り住んでまだ二ヶ月。
こんなに心地よい生活を龍平は失いたくないと思う。
しかし自社ローンから信販契約に切り替えさせる問題、八王子店を軌道に乗せる問題などが山積する中で、不良売掛金の問題だけでも、自分の給与の減額を自主的に申し出でなければならないかもしれず、もうこんな贅沢な生活にピリオドを打つ時が、すぐそこまで近づいているのかもしれなかった。

十二月に入った。浜松町本部にいる龍平に、池袋店で会社全体の経理を担当する大山から電話が入る。
「野須川常務、よく聞いて下さい。九月の後半から前月末まで、既に二千数百万円の架空売上を取り消しました。だから常務は、売掛金の内容が少しは改善されたと受け止めていらっしゃるかもしれませんが、それが一向に良くなっていないのです。何を言っているのかと申しますと、毎月の入金がずっと五千万円止まりで、一向に売上の九千万円には近づかないのですよ」
「それは僕も気にしているところなのだ。何故売上と入金がそんなに違うのかと」
「今全店の経費は五千万円弱です。支払いは、経費に加えて商品代があります。仕入代金の支払いは本社に向けて四ヶ月の手形を振り出していますが、現在は三千万円くらいの手形決済が毎月廻ってきます。十二月末以降は四千万円の決済が毎月廻って来るのですよ。今の資金繰りでは、手形決済の資金は全く自己調達が出来ず、統括事業部から全額融資を受けています。つまり商品代金の手形決済分だけ、毎月、本社からの借入残高が増加しているのです。これは大変なことではありませんか」
「聞きたく無い話だが、大山君、それが事実なんだね」
「つまり、大多数のセールスが、架空売上をして水増しの歩合給をとる癖が一向に治らないし、その商品の総てがどこかに消えていると言うことになります。この会社は泥棒の集まりになってしまったのでしょうか」
「そんな酷い言い方はないだろう。成る程、これまでは無理矢理出店をして来たから、セールスも店長にがんがん言われて、つい架空売上をしたのかもしれないが、これからは売上の内容も良くなって来るのではないだろうか」

「常務、問題はセールスの給与です。過去の架空売上の取消を会社に入れられたセールスは、九月の歩合給を貰う十月になって、歩合給がゼロ乃至半額になっていたので、給与計算をする私に大ブーイングでした。だがそれが常務の指示だと分かって、今度は常務に不満を持ちだしたようです」
「それは分かっているのだ。しかし過去に嘘で固めた売上で歩合給を貰ったのは事実なんだから、それを返すのは当たり前のことじゃないか」
「しかし実際、歩合給が減額になれば、ここ東京じゃ、セールスは家族を食わして行くことが出来ません。常務がそんな方針ならと、開き直ってセールスが過去の取消を入れられる分、同額の架空売上を新たにして来ないか、私は心配です」
「そんなことをさせない為に、信販契約に切り替えるのだよ。本社から来年一月から信販売上だけにしろと言って来ている。もし百パーセント信販売上になったら、架空売上をする余地が無いのだから」
「今、信販売上と自社ローン売上は、南関東ではまだやっと半々です。勿論架空売上は自社ローンに入っている筈ですよね。こんな状況じゃ、来年一月から自社ローンは全面禁止と言ったって、我が社では事実上不可能でしょうね」
「もしそうであっても、本社は来年四月までは待ってくれないよ」
「そうしたら尚更、自社ローンの売掛金がクローズアップされますね。百パーセント信販売上になれば、信販会社で審査中の直近の売掛金を除いて、来年三月末に残る自社ローン売掛金イコール架空売上の未処理分となるのではありませんか。常務は来年八月まで掛けて、毎月一千万円ずつ架空売上を取り消そうと仰っていたけれど、四月以降はきっとそれもできなくなりますよね」

「そうかもしれない。赤字が更に出ても、もっと早いペースで取り消して行かなければならないな」
「しかしそうなると今残っているセールスの心が完全に常務から離れますよ」
「それも覚悟の上で言っているのだよ」
「常務がセールスから袋だたきになるのをいくら覚悟されてもですね、そんなことよりも、セールスだけで出来上がった会社なんて、セールスの求心力を失えば、一挙に空中分解してしまうのではないか、とそちらの方が、私には心配です」
「それは百も承知だし、絶対にあってはならないことだ。だからそんなことを冗談でも口にするな」
「しかし、常務、もしもこんな時に、都内のミツバチ・マーヤの総攻撃を食らったら、ひとたまりもありません。常務、この非常時、一度そちらのすぐ近くの増上寺に、徳川将軍家が参詣したと言う増上寺に、会社の武運長久を祈って来て下さいませんか」
「また大山君の神頼みが始まった。僕は神頼みも、仏縋りもしないから。前にも言っただろう」
龍平はそこで電話を切ったが、気分は重苦しかった。大山の言葉で、ミツバチ・マーヤの動きが気になる。調査役の瀬川は、ミツバチ・マーヤの遠藤会長が龍平の江坂店潜入など気にするものかと口では言いながら、軽率に瀬川に渡した龍平のメモ書きを手玉にとって、潜入事件の詫び状を獲ったと全国に公表したのだ。龍平のことは決して許してはいないし、龍平がカシオペア南関東販社の責任者であることを知ったのも、瀬川が銀座京橋ビルにやって来たあの日の筈なのだ。であれば、都内の全店を揚げて、カシオペア一掃作戦に乗り出すのは、まだこれからの筈なのだ。ところがこの静けさは何だろう、敵の姿が見えないことが返って龍平の恐怖感を煽るのだった。

十二月の月末近くになって、大阪の俊平会長から直接電話が入り、「本社ではお前の経営責任を追及する声が日増しに上がっているぞ。最後のチャンスをやるから、正月休みに事務官全員出勤させ、今残る売掛金の全内容を調査し、即時報告して来い」と言って来る。
龍平はこの命令にも従う気は無い。実は調べはとっくについていた。今残る売掛金の殆どが、架空売上らしかったのだ。
その金額は余りにも巨額で、龍平にも、大山にも、口にすることさえ憚(はばか)られた。もうどんなにしても、龍平は責任を逃れられないようだ。
しかし野須川寝具産業にはまだ公表すべきでないと龍平は考えた。その額を公表すれば、間違いなく龍平は解任だろうが、それよりも野須川寝具自身の信用をも揺るがすことになるだろう。そしてセールスが全員逃げ出すかもしれない。自分がこんなに苦労して創った会社なのだ、だからなんとしてもこの会社の販売体制を維持させたいと、龍平は自分を守ることよりも、そちらばかりを考えていた。
大晦日が近づき、龍平は俊平の命を無視して、全事務官に休暇を与え、自身も年末年始は智代の船橋市中山の実家に滞在することにする。
だが、龍平が南関東販社の売掛金の真実の暴露を恐れて、正月休みに父俊平の下へ戻らなかったことは、龍平にも、俊平にも、南関東販社にも、大変不幸な結果に繋がるのだった。

十二月三十日、夜の九時過ぎに仕事を終え、浜松町店を閉めて、この日は珍しく地下鉄で西船経由で智代が待つ中山に向かった。

そこで龍平はあれっと思う。いつも六、七台の営業車があったミツバチ・マーヤ船場店の駐車場の空き地に一台も車が無かったのだ。
「あれ、どこに行った」と辺りを見ますと、遠くにミツバチマーヤの営業車らしき無数のバンが並ぶ影が見える。そちらに曳かれるように歩いた。そちらの駐車場には、五十台以上のミツバチ・マーヤの営業車がぎっしりと並べてられているのが月の光で分かった。
何か正月からの大セールの準備なのか、否、来年から船橋店を大きくして、いよいよ東京のカシオペア潰しに出てくる用意のようだ。
ミツバチ・マーヤ最大の店、相模原店から部隊を移動して来たのだろうか。
遂にミツバチ・マーヤと、東京を舞台に争う時が来たのか、龍平は前身に鳥肌が立つのを感じていた。
そしてその翌日の大晦日、龍平は大山への前言を翻し、智代を誘って、深夜芝の増上寺に元旦の参詣に行ったのだ。
運命の昭和五十四年の年が明ける。

第四章 報復の応酬 その⑦に続く