第三章(東京と大阪)その9

(筆者の前の会社の訪販事業部東京販社の千葉店。東金街道に面した高層マンションの一階を改装した。昭和五十三年夏撮影)

「君が結婚した時だ、カシオペア事業立ち上げの準備をしながら、財務部に籍を置いていた龍平君だが、彼の部下で、入って一年くらいの女性が、急に会社を辞めるということがあったな。今の奥さんと結婚の準備をしながら、高校を卒業したばかりの無垢な女の子にも、君はちょっかい出していたんだね」
「いや、それは誤解です。彼女が一方的に私のことを」
「よく言うよ。きっと辞める時に、君への恨み言を、彼女はさんざん龍平君に聞かせただろう」
「それは知りませんが、もう十ヶ月も前のことですよ。常務がそんな些細なことをいつまでも」
「龍平君の気性はね、蛇の様にしつこいんだよ。君にはほんの遊び相手だったのかもしれないが、龍平君には大切な部下だった。だから今後の南関東販社で、隆平君がトップにいる限り、君が出世することはない。最終的には、君が切られて龍平君が残るか、龍平君が何か失敗して追い出され、君が残るか、のいずれかだと思う」
「そっそんな! そこまで仰るなら言わせてもらいます。野須川常務の存在は南関東販社にとって良いことばかりではありません。何でも俊平社長の言いなりで、無理に無理を重ねて業績を伸ばすのは良いとして、それは形ばかりで、営業が揚げてくる割賦販売の契約書のチエックは、完全に後手に回っています。きちんとチエックしたら、横浜店や大宮店の売上は、九掛け以下に修正しなければならない筈。常務がわざと内容チエックを遅らせているのです。それにこんなに次から次に出店を続けたら、全員が悲鳴を上げますよ」

「出店問題で隆平君も人望を失ったか。それにしても契約内容のチエックが遅れるのは由々しきこと。南関東の債権管理に問題が起これば、統括事業部を預かる僕だって責任問題だ。そんな危ない管理職は早々に大阪に戻した方が良いと君は思わないのか?」
「本部長、私もそう思いますが、何か良い方法がありますか?」
「来月ゴールデンウイーク明けに関西に社員旅行で来るだろう。宴会のホテルはどこ?」
「大津のホテル比叡桜です」
「そこに僕も行くから、龍平君をヘッドにしたくない者を多数集めてくれ。当日、従業員の多数意見を容れて全員が集まる席で、事業本部長から龍平君に引導を渡すことにしよう」
「分かりました、それは面白いショーになります。しかし賛否拮抗なら?」
「再来月は千葉店出店だな。池袋店を二つに割って千葉に向ける噂だが、何か聞いているかい?」
「いいえ、まだ何も」
「すると龍平君は宴会の席で話をするつもりか? 千葉の店長を誰にするか、心づもりはしている?」
「今急いで千葉店を出すのは反対です。だが常務から無理強いされたら、藤原君にしようかと」
「池袋から藤原君以下十名余り千葉店に出すのを、隆平君に出て行ってもらう為の条件にするのだ」
「なるほど、分かりました。部下の信任が得られず、大阪に戻る龍平さんは役員も辞退でしょうな」
「それが分かったら、君に従う仲間を一人でも多く集めることだ」
「はい、分かりました。私に任せて下さい」

五月に入ると龍平は大宮から横浜店に戻っていた。俊平社長から命令された六月の千葉店出店の件を池上店長と相談する為だ。
龍平は横浜店から、池上を伴い、千葉に出かけて物件探しもした。
目指す物件は東金街道にあった。高層マンションの一階部分、テナント三つ総てが空いている。
一階を通して借りると家賃は六十万円、池袋が家賃三十万円、横浜が家賃五十万円、大宮が家賃二十五万円だったから、一番家賃の高い物件だったが、龍平たちはそこが気に入って決めた。交通量の多い東金街道から良く見えて「高級寝装品製造直販カシオペア」の宣伝に効果的だと思ったからだ。
因みに大宮の出店は失敗だった。ビジネスビルの二階のテナントで、看板も出せず、京浜東北線の線路には近いが、大宮駅からは何キロも離れていて、求人募集をかければ、見事惨敗に終わった。大宮周辺の人口は多くても、腕に自信がある営業は、往時よく言った「ダサイタマ」ではなく、東京都内の会社に通勤がしたいのだと龍平は後になって知ったのだった。

社員旅行が後一週間に迫る。営業車が次々と戻って来る、夜六時台の横浜店の店長室で、池上と相談しながら作った六月の池袋、横浜、大宮、千葉四店の営業配置表を見ながら、龍平はため息をつく。
「中川君に千葉店に移動してもらうメンバーの相談をしなければならないぎりぎりのタイミングだ。僕が頼んでも、性急な千葉店出店に反対する中川君が、簡単に首を縦に振る訳ないと、中川君らの動きが何かあるまで待とうと君が言うから、今日まで待ったが、もうこれ以上は無理だな」

「野須川常務、焦りは禁物です。常務には、中川さんに絶対に頭を下げてもらいたくないのです。大山の寿司屋にしょっちゅう仲間を集め、中川さんが何やら謀議を重ねていることは分かっているのです。きっと向こうから動いて来る筈です」
「だからその九名を千葉店の立ち上げメンバーにしたのだが、このままではやり直しだ!」
そこへ、一人のセールスがドアをノックして入って来た。
「池上店長、ご報告します、今朝私に池袋の中川店長から電話がありました。大事な話があるので、昼間公衆から池袋に電話してくれと言って来られたのです。それで電話したのですが」と、中川が大阪の牛山と組んで、社員旅行の宴会の全社員が揃う中で、クーデター決行を企んでいるという話を詳しく報告した。彼らは現状維持組で徒党を組んで、出店を急ぐ、常務の龍平や、池上、小野原の三名を追放しようとしているという話だ。
龍平、池上、二人の顔が、ともに目を大きく見開いて、ぱっと花が咲くように明るくなった。
「それで、君はどう返事した?」と龍平は思わず池上を飛ばして報告者に声をかける。
「はい、かねてから池上店長から指示されていた通り、中川さんに賛同します、責任持って横浜でも十名以上の同志を集めますと返事しました」
「よし、よくやった! 遂に中川一派は動いてくれた!」龍平と池上は可笑しくて、応接ソフアを笑い転げた。
翌朝、龍平は横浜店から、関西販社の淀屋橋本社に電話する。俊平は同社の営業にせがまれ、同社本社の都心移転を認めたのだ。と同時にその同じビルに野須川寝具産業の本社も鶴見区から移転した。

「田岡社長、お久しぶりです。本社を淀屋橋に移転されたそうで、お目出度うございます。はい、こちらは元気にやっております。実は私の南関東販社の社内で、実にお恥ずかしい話をお聞かせすることになりました」と龍平は前置きして、牛山、中川の企みを洗いざらいぶちまける。最後に田岡に頼みごとがあると、間近に迫るクーデターの、龍平の戦略参謀の池上が考えた対抗策を打ち明けた。

その日の午後、俊平社長のアポをとり、田岡は同じビルの野須川寝具の社長室を訪ねる。
「野須川社長、お忙しいのに、わざわざ時間をとって下さって」
「いやいや、田岡社長が同じビル内におられるのは、何かと心強いですよ。それで今日は何か?」
「今日は私のところの相談では無く、東京の龍平君からの言づてなんです」
「何か知りませんが、私に直接言って来ないで、田岡社長にご面倒かけるとは、困った奴だ」
「いやいや、そう仰らず、龍平君は本当によくやっていますよ。ちょっとこれを見て下さい」と田岡は、龍平がファックスで送ってきた、南関東販社四店の六月のセールス配置表を出した。俊平はその表を何度か頷きながら、暫く凝視した後に、ふと気づいて感想を述べる。
「成る程、四店出すなら、この配置しか無いかもしれません。しかし中川君が同意するでしょうか?」
「そこなんです、私もこれがベストの配置だと思うのですが、どうもその中川君が、もうひとつ積極的ではないのだそうです。そこで野須川社長にお願いしてくれと龍平君から頼まれたのですが、この組織図に同意して頂けるなら、そこにサインしてやっていただけませんか」
「それでことが前に進むのですか? 普段大人しい中川君が龍平に楯突くのは、牛山が何かしているの

ではないですか? そんな話を龍平から聞きませんでしたか?」
「まさか、そんな話はまったく聞いておりません」と田岡は冷や汗を掻きながら、俊平がサインした書類を受け取る。
「それなら良いのですが」
「それと龍平君からもうひとつ、お父上に頼んでくれと」
「まだ有るのですか、何でしょう」
「来週に迫る社員旅行の宴会に本社から出るメンバーですが、牛山本部長の臨席が予定されてますね」
「そう、私が行くべきですが、その夜は別の大事な予定が入っていまして、それで牛山を代理にと」
「実は龍平君が言うには、できたら販社の社長の話を営業たちが聞きたがっていると、それで是非この私に来てくれと言って来たのです」
「なるほど、プロのセールス諸君なら、牛山のようなサラリーマンの話など、聞きたくないでしょうな。よく分かりました。お忙しいのに申し訳ないが、田岡社長、息子の為に行ってくれますか?」
「はい喜んで」

五月の中旬に行われた南関東販社の社員旅行。新幹線で岐阜羽島まで行き、そこからバスで明治村を見て、大津のホテル、比叡桜に入る。
その夜、中川は宴会の前に、龍平の部屋に呼び出された。その部屋には池上、小野原と、関西販社の田岡社長が同席する。

龍平は重々しく中川に次の話をした。中川が大阪の牛山本部長と組んで秘密裏に企画して来た仰天の宴会の余興は、全部露見しているのだと、大阪の俊平社長さえも知っていることだと、中川たちが半数以上の賛同を得ていると勘違いしているかもしれないが、中川に同調するのは僅か池袋店の九名の親衛隊だけなんだと。
中川は顔色を無くし、皆に囲まれて、一人ぶるぶると震えながらかしこまるしかない。
「本来なら、ここで君には辞めてほしいところだが、大阪の野須川社長は、今回の件は不問にして、君にもう一度奮起して頑張ってほしいと、ここにある来月の組織図を作って送ってきて下さったのだよ。この表にある通り、君は君の親衛隊の九名を引き連れ、店長として千葉店に移動してほしい。野須川社長の希望なのだ。池袋店には横浜店から同じ人数のセールスを出し、池上君に店長になってもらう。横浜店は開店時に入った久保君に店長をしてもらうことになった。その補佐は暫く僕がする」
書類にある俊平のサインを見せられると、中川には否応が無く従うしかなかった。
この半時間後、ホテルの大広間に南関東販社の全社員が集められ、宴会が始まる。そこで六月の人事異動が発表された。
中川親衛隊は左遷組となったのだ。

第三章 東京と大阪 その⑩に続く