第一章(家族、夫婦の絆)その1

(写真は筆者が和議以降廃業するまで十二年間、羽毛布団や固綿敷布団などの寝具の生産を担当した八幡市の工場)

昭和二十八年に化合繊原料商として、滋賀県から大阪に出て来た野須川(やすかわ)俊平(二十八歳)によって設立された株式会社野須川商店。
同社はその後、大阪市鶴見区茨田横堤(まったよこづつみ)に寝具工場を創り、寝具店チエーンを束ねる山本寝具のグループ社、京都山本の肌フトンの生産を引き受ける寝具製造会社となった後、合繊メーカーの一社、帝都紡績の傘下に入ると、泉州にテイボーアクリル使いの毛布工場を創って、資本金を二億円に増資し、社名を野須川寝具産業株式会社と改めた。
この時俊平は、関西の国立大学を卒業した後、太平洋商事の繊維部門に勤務していた息子の龍平を会社に入れる。それまでの子飼いの有能な事業部長から後継者を選ぶ方針を改め、息子を後継者にすべく、息子の為に何か新事業部をと考えたのが、寝具の訪問販売事業だった。
寝具の製造直販で全国を席巻することで、上場会社を目指す俊平を高く評価した、大阪の地銀、なみはや銀行の山村頭取の支援によって、京都府八幡市に掛け布団、敷布団と言った重寝具を生産する工場が出来、セールスを集めながら営業拠点が全国に拡げられて行った。


だが毛布事業部が帝都紡績のアクリル部門とつるんで巨額の損失を隠蔽したのが明るみに出た途端、債務超過に陥り、昭和五十六年、なみはや銀行の指示の下、和議申請を出すしかなかった。
翌年春の債権者会議で会社の再建が認められ、以後工場は八幡だけを残し、業界との手形取引を止め、訪問販売部門だけを残して、小売業だけで和議債務の弁済を図ることになる。
しかし毎年二億五千万円ずつの和議弁済に必要な資金作りを事業目的にしなければならず、四年の後には、訪販事業は空中分解するようにセールスが散って消滅した。和議弁済は未だ道半ばであった。
それから俊平と龍平は違う道を歩くことになる。俊平は寝具事業への興味が失せたかのように、本業から手を引き、龍平に責任を押しつけるのだった。
業界には小売業に走ったメーカーを相手にする者はない。八幡の工場では生産できるアイテムも限られ、結果的に転業対象となる霊園事業の許認可条件だった付近住民の同意書取りで、龍平が俊平と共同で働くまでの七年間、父親を怨みながら、必死にもがいた日々は、所詮時間稼ぎに過ぎなかった。
一方、昭和の末期から始まった不動産バブルに踊らされたのが俊平だ。八幡の工場の半分を売却して延滞和議債務等を大幅に減らすまでは良かったが、銀行から派生して出来た不動産投資のノンバンクの力を借りて、不慣れな株式投資をしたり、南河内郡丹南町の開発調整区域にある、社有地三千坪での宅地開発を進めたが、それらはいずれも失敗した。負債を減らすためにしたことが総て裏目となり、返って負債を膨らませる結果に終わったのだ。
この損金を取り戻す為、幸運にも関西石材と出会った俊平は、翌平成三年夏に香川県の宗教法人の教主を継承し、関西石材の指南を受けながら、此の土地での霊園開発を大阪府に申請した。

これが丹南メモリアルパークである。
霊園事業を認可する条件として大阪府が求めた付近住民の同意書取りに、俊平と龍平が協力し合ったことは、長く対立軸にあったこの二人の関係を改善した。そして二人の和解は、平成五年十二月に、龍平が自分の秘密を告白し、父親に謝罪し、俊平が許したことで完成する。
不思議なことに、それから次々と付近の自治会の同意書が揃って行った。
丹南メモリアルパークは部分的に平成六年春にオープンしたが、メインゾーンと呼ばれる区域の工事が竣工するのは同年秋、墓参客が休憩できる鉄骨二階建ての管理事務所が建つのは翌年春だった。
不思議なことに、あるいはそれこそが神のみぞ知る、俊平や龍平の人生の筋書きだったのか、石材店の薦めでバブル投資の失敗を取り戻そうと始めた霊園開発が、バブル景気が弾けたことで、話がすり替わり、野須川寝具の本業を廃業にして転業する対象事業となったのだ。
龍平の運命が、屈折点を越えるように、上向き出すのはこの辺りからだ。
彼は長く幸運に見放され、極貧の深海の底を這っていた。それが父との和解から、身体に浮力が付いた様にゆっくりと水面に向かって浮上始めた。
それにしても一億六千万円もかかる造成工事や、六千万円もする管理事務所ビルの建築工事が、前年夏の廃業以後、入金と言えば、八幡工場の機械設備や在庫を売った千数百万円しか無く、殆ど無一文に近い二人によって発注され、工事を無事終えたというのは、神がかりの奇跡的な話である。
二人が和解して以降は、まるでそれが機縁になったかのように、多くの人が二人の事業に協力してくれることになったのだ。


ところで霊園の開園から運が開けたのは龍平だけだったのか。開園から三年後には、彼はかつての仕事で蒙った高利の借金を総て完済した。ようやく陽の当たる水面に浮上したようである。
一方、所謂(いわゆる)バブル債務者となった俊平は、その後、八幡の工場が競売で落札されると、持てる不動産が無くなり、頻繁に取り立てに来る人こそなくなったが、バブル投資に暗躍したノンバンクは一斉に整理され、バブル不動産投資で傷を負った銀行も、資本強化の為に合併が進み、都市銀行と言えども、企業グループの枠まで越えて合併が進められた。
そんな中で命までは捕られずとも、私財を無くすバブル債務者が続出する中、次第に肩身の狭い日々を過ごす俊平であったのだ。
俊平は、自分が負うたバブル債務は、息子の龍平には継承させないようにと祈りに祈った結果だったのか、平成十一年夏に突然、不治の病、膵臓癌を発症した。
手術の後は一時回復したが、翌年春には再発して入院し、治癒する術も無く、平成十二年十二月二十六日、妻と息子夫婦に看取られ、息を引き取った。満七十七歳だった。
霊園事業を野須川寝具での経営から、時期が熟したから宗教法人に切り替えるようにと、俊平が指示したのは、一時的に回復して会社に出て来た平成十二年三月だ。
龍平はそれに従い、両経営者、二人の従業員の籍を宗教法人に移し、四月一日を以て霊園事業を宗教法人で引継ぎ、その日を宗教法人の事業年度の開始日として届け出た。
丹南メモリアルパーク霊園施主、香川大社は、俊平の債権者の手前、霊園という資産だけ持ち出すのでは無く、霊園絡みを中心に、同額の負債も持ち出して、純資産ゼロからスタートする。

(第一章 家族、夫婦の絆②に続く)