第一章(家族、夫婦の絆)その6

(写真は誕生した直後の筆者である。撮影場所は筆者誕生の地、大阪市阿倍野区播磨町)

さて俊平が大阪船場の繊維商社、船栄商店に入社した一九四一年(昭和十六年)と言えば、その年の十二月八日が、日本帝国海軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、同時にマレー半島にも奇襲上陸して、日本が対米英仏蘭に宣戦を布告する「太平洋戦争」が始まった日である。
即ち日本の若者が「時局」という空気を読み、ただならぬ緊張感の中、恋愛などから後ずさりする時に、俊平は社内で人気一番の美人社員、国江にストーカまがいのことをしていたことになる。他の同僚と競合しなかったのは、そう考えるなら頷けよう。
それにしても、血は争えないと言うが、誠にその通りである。息子の龍平も、日本の四大商社のひとつ、太平洋商事に入社して北陸支店の一二を争う美人社員に、分相応という言葉は知らぬかのように求婚したのだ。その話は後に詳述することにする。
職場の隣の席の女子社員に、私の親友につきまとうのは止めろ、と言われて、国江への慕情が益々熱く燃える中、一歩も近づけずに半年が経過して昭和十七年になった。
相変わらず俊平の営業成績は優れ、それを妬む先輩社員から俊平は嫌われ者だったが、ただ一人、俊平を弟のように可愛がる先輩がいた。

彼はある日、俊平に休日を共に過ごそうと誘う。喜んで俊平は先輩と出かけると、そこに来たのは隣の席の女子社員だった。つまり先輩とその女子社員は社内で密かな恋仲だったのだ。
そんなことが繰り返され、何時からかこの仲間に国江を加える話が持ち上がる。提案したのは先輩の彼女だった。
それからは何度も四人で休日を過ごすことになった。俊平もこの四人組で撮った写真を複数残している。いつしか国江も俊平に心を許し、俊平と恋仲になって行った。俊平の人生の一番楽しかった時なのかもしれない。時は昭和十八年となり、俊平は十九歳、国江は十七歳だった。
そんなある日、俊平は意を決して、国江の実家の岡山県児島に出かけ、彼女の両親に国江との結婚を願い出た。俊平はこの求婚はうまくいかないだろうと覚悟していた。彼女は会社で一番人気の女子社員であり、自分はどうなるとも分からぬ若造なのだ。ところが彼女の父親の返答は俊平を驚かせた。
「うちの娘で良ければ、どうぞ貰ってやって下さい、ほんとうにありがとうございます」と畳に頭を付けて礼を言ったのだ。
俊平はこの時初めて、国江について自分は何も知らないことに気づいた。慌てて彼女のことを調べる。すると彼女は結核患者であり、それも最早重症であって結婚生活に耐えられるかどうかも分からぬ容体であった。家族の反対を押し切って、先の見えた短い結婚生活を覚悟して、一緒になるのか、俊平は悩んだ。往時の結核は、今の余命宣告がなされた癌と同じである。
さて俊平の業績は常に突出していたが、そのリスクの高さは社内で問題だった。たまたまうまく行ったから良いものの、もしも逆の目が出たら、会社が危うくなる恐れもあった。


こんな男を大阪本社に置くことはできないと、昭和十八年十月、俊平は舞鶴支店に左遷された。これで俊平は国江と逢えない日々が続くことに。離れて初めて国江の大切さが分かった。
やはり自分には国江が必要だ、と年末の休暇で大阪に戻った俊平は国江との結婚を強行し、彦根郊外の河瀬村の実家に棲むことになった。だが俊平の単身赴任は続く。
ところが三ヶ月後の昭和十九年三月に、無断で舞鶴支店を辞めて、滋賀県に帰って来てしまった。自分が国江の傍にいなければ、との強い思いだったのだろう。
滋賀県の河瀬から大阪に通勤することになった俊平に手渡された無情の辞令は、ビルマのラングーン支店への赴任命令だった。
昭和十九年と言えば、太平洋戦争の末期、ラングーンに行く船で日本を離れた途端、米軍の潜水艦に沈められてしまう時代であった。
「俺を殺す気か」と、俊平は辞表をたたきつけ、船栄商店を辞めた。僅か三年の商社マン人生だった。
この直後に俊平に召集令状が来る。しかし俊平は兵隊には行ったが、戦地には行けなかった。国江の結核が伝染していて、検査不合格だったのだ。
俊平と国江を引き合わせた先輩は戦地に赴いた。その先輩の彼女も国江の結核が伝染していた。
国江は終戦の半年前、昭和二十年二月に亡くなった。舞鶴赴任や兵隊にとられたりして、二人が一緒に暮らしたのは一年にも満たなかった。
その後、国江の友達の女性も後を追うように亡くなる。その彼女が再会を心待ちにしていた俊平の先輩も、遂に戦地から故国に帰らなかった。


終戦は多くの日本人の人生をリセットさせた。いつまでも過去を振り返る訳にも行かず、前を向いて生きるしかなかったのだ。
俊平も船栄を辞めてからは一人ブローカーで金儲けをしながら、仕事で出入りしていた大阪船場の不動産会社の事務員、国江と同年齢の伊勢美智子を見染め、結婚した。
翌昭和二十一年五月、俊平は布帛物の縫製工場、資本金五万円の近江産業を創っている。この元手は俊平個人が稼いだものだが、戦時中で砂糖やサッカリンが不足する中、製薬会社にいた国江の父親の協力を得てズルチンという甘味料を作って大儲けしたのだと俊平は後に明かしている。
昭和二十二年、俊平は大阪市阿倍野区播磨町の古いお屋敷を買って、そこで布帛物の鞄を縫製する事業を始めるが、そこで生まれたのが、長男の龍平である。

 

(第一章 家族、夫婦の絆⑦に続く)社