第三章(東京と大阪)その12

(現在のJR浜松町駅付近。嘗てこのビル群の中に高級寝装品SEMARのネオン広告を付けた五階建ての浜松町ビルがあった。)

大阪から野須川寝具産業の俊平社長が全役員を引き連れ、全国からカシオペア販社の代表者全員がやって来る、初めてのカシオペア事業の関係者が一堂に会する、銀座京橋ビルでのカシオペア社長会の開催を明日に控え、隆平はスタッフを集め、準備に余念が無かった。各販社に問い合わせ、何度も会議室に入る人数の確認をした。それに合わせて、湯飲みの数、おしぼりの用意、お茶からお茶菓子の用意まで、些細なことだからと手を抜く輩には、大事な仕事を任せられないと口癖の様に言う俊平だから、どのような手抜かりも決して大目に見逃す筈は無かったからだ。
会議や来客受入の準備が整い、ほっと一息ついたところで龍平は、ビジコンの技術者で、池袋店で梅木美智子と共に、南関東販社の総務経理を任されて来た大山と二人きりになった。銀座新本部への転勤を嫌がった梅木美智子を、龍平はそのまま池袋の事務官として残すことにする。池袋の店長だった池上が、来月から南関東販社看板店となる浜松町店の店長に就任し、池上は池袋店店長の後任として同店トップセールスの杉山を指名した。
大山は龍平に話しかけた。
「常務と二人きりでお話する機会になかなか恵まれませんでしたので、少し話を聴いてもらっても宜しいでしょうか?」

「僕も大山君とゆっくり話をしたかった。ずっと横浜店にいたので、たまに中丸町の自宅に帰っても、池袋店に寄る時間は作れなかった。僕のいない間、よく池袋本店の留守を守ってくれたね。君にはほんとうに苦労をかけた」
「たった一年間で会社をこんなに大きくされた常務は、まだお若いのに、本当に優れた経営者だと思いますよ」
「たまたま運が良かっただけだ、僕は特別に有能な人間ではないから。そんなことより、僕に何か言いたいことでも?」
「池袋店には愛着がありますからね、あの店の店長人事は、慎重に考えてもらわないと」
「杉山君では心もとないとか?」
「杉山君は優秀なセールスですが、人を束ねる器ではありません、どうしても彼を店長にされるなら、経営管理能力がある上司をつけてやるべきかと」
「何だって? まさか、君は千葉店から、中川君を、杉山店長の相談役に呼び返せって、そう言いいたいの?」
「流石常務です。中川さんの評価が、常務も私も同じなら、話は早いです。中川さんはこの四ヶ月間、千葉店で本当に良く指導力を発揮しました。自分のプライドをあんなにズタズタにされても、常務の指示に黙って従い、部下を連れて素直に千葉店に行ってくれました。普通ならあの時点で会社を辞めるでしょう。そうしなかったのは、彼も常務同様、このカシオペアを、野須川寝具産業を、心から愛しているからですよ」

「しかし彼は今でも池上君を嫌うグループの中心者だね。最近お隣の船橋店まで自分のグループに引き込んだようだ。その彼が池袋店の営業部長になれば、杉山君が、池上派ではなく中立派であるのを良いことに、彼らまで中川グループに呑み込まれると、反池上派は営業部員の半数に迫る勢力になるのだ。それは由々しきことだよ。反池上派と言うのは、はっきり言えば、反野須川常務派というのと、実は同じ意味ではないのか?」
「何と狭量な、トップの発言とは思えません。そうなるか、ならないかは、常務と池上さんとの今後の関係次第ではありませんか? 常務は池上さんを随分高く買っていらっしゃいますが、他の社員から彼の評判を聞かれたことがありますか?」
「営業には売上を上げろと厳しく言うが、契約内容のチエックは疎かにするから、彼の店は不正契約の温床になりがちなこと、それから彼がいい歳をして結婚しないから言われるのだろうが、仕事のオフタイムになれば、営業の中から気に入った若い営業マンを選んで傍に侍らせているとか、僕はそんな彼の姿を見たことはないがね、そういうことは既に耳に入っているよ」
「そんな噂のある低級な人間が、人の上に立てるのでしょうか?」
「僕は悪い噂よりも、仕事は結果だけ、数字だけを信頼したいのだ」
「常務が、そんな数字だけで人事を行う方ではないと信じたいです。数字と言えば、思い出しました。中川さんが池袋店の店長だった時、常務はよく売上の伸びないセールスのこれこれを辞めさせろって、次から次へと中川さんに指示して来られましたね。中川さんは、泣きながら命令に従っていたの、ご存じでした?」

「採算の合わないセールスに、何時までも会社が保証給を払い続けるのは不可能だろう!」
「常務が辞めさせろって言って来られたセールスに限って、真面目に訪販に取り組んでいるのが多かったし、こんなしっかりした商品をセールスできるのは幸せだと、喜んでいたセールスも多かったことを知っていて下さい。そのセールスの可能性すら現場に聴きもしないで、すぐ辞めさせろ!ですからね。俊平社長からも、その件ではたしなめられたのでしょう?」
「全ては会社を潰さぬ為だ。確かに現場には苦労を掛けたし、辛い思いもさせたとは思うよ」
「常務は中川さんを、仕事が出来る男とは認めながらも、信用されてはいませんよね」
「まあ、そういうことになるかな」
「では、反対に池上さんや小野原さんは信用できるのですか?」
「あの二人も、完全には信用していないだろうね」
「そうなんですか。常務だけを上司と思い、無条件に従う人々すら信じられないと仰るのですか。龍平常務は、お父上の俊平社長に比べると、実に淋しい人間なんですね」
「僕にとって事業は、究極的には貸借対照表の数字の伸びだけだから。企業に働く人間も、結局は収益を得る為の『駒』と見てしまっているのかもしれない」
「そんな話は、私以外には仰らないで下さいね。では常務は何を目標にされているのですか?」
「人情には流されない、強い人間になりたい、それだけだね。僕は誰にも負けたくないからね。それに会社を絶対に潰したくない。大山君、こうしている間にも、全国で星の数程の企業が登記され、十年後にはその殆どの企業が消えてしまっているのを知っているかい」

「そうなんですか。是非僅かな生き残り組になりたいものですね。ただ辞めさせられた人たちは常務を怨んでいるでしょうし、例の野須川社長の失言で、常務は山崎コンサルタントからも、藤崎さんからも、そしてミツバチ・マーヤからも怨まれ、それらが前途に影を落とさなければ良いのですが」
「太平洋商事時代は、大商社に虐められる零細業者の数社を、自分の出来る範囲で、会社に内緒で助けてやったりして、貸しを作って来たつもりが、いつの間にか逆転して借りばかり作るようになったのかもしれない」
「先ほど常務は運が良かったと仰いましたね?」
「これまでの三十一年間、挑戦したことの総てを達成したし、一度も失敗して来なかったから、自分は運強い人間だと信ずるようになった」
「何か信仰でもされているのですか?」
「信仰? そんなものは社会人になった時、どこかに置き忘れて来たね。少年時代、病弱だった身体の強化の為に入ったボーイスカウトが、たまたま地元のキリスト教会がスポンサーだったので、その間だけ強制的に入信させられたことがあるんだ。僅か一年だったが、その影響で、僕の心の中に、神様がしばらく根付くことになったかもしれない。大学を卒業するまでは、心の中に神様がいたような気がする。しかしいい大人が神様でも無いだろう」
「早くお帰りになりたい常務を、詰まらぬ話で足止めいたしました。ですが中川さんの件は是非考えておいて下さい。これで失礼します」

「お疲れ様」
大山は龍平を振り返らず、足早に部屋を出て行きながら、龍平の前途に何か大きな不運が立ちはだかるのを感じて、理由(わけ)も無く不安になるのだった。

 

第四章 報復の応酬 その①に続く