第五章(和議倒産) その11 

(筆者が経営する、第二霊園(羽曳野市)のバラ園。モデルさんを使った石材店販促用写真)

嘗てミツバチ・マーヤの最大店である相模原店を統率してきた谷川本部長以下、精鋭部隊四十名を引き抜いて創った、カシオペア・ニュー渋谷店は変わらず意気軒昂だったが、元からあったカシオペアの浜松町店、横浜店、千葉店は、新店のニュー渋谷店と一人当たりの売上を比較され、大人と子供の違い、プロとアマの違い、と本社統括部に嘲笑されている間に、櫛の歯がこぼれるように、一人、一人と、セールスの退職が始まった。全員がいなくなるのも、時間の問題かもしれない。

俊平は、この事態を重く受け止め、河野社長に紹介された、セールスを売り買いする竹中に電話する。竹中は俊平の足下を見て、スカウト料を谷川部隊の引き抜き時から、一挙に引き揚げてきた。それもスカウトされたセールスたちに本当に分配されたのか、どうかも分からない。

「会長、それは大変だね。じゃあ辞めたがっている、あの会社の営業を、もう一度探してみるか。そこで会長、お願いがあるのだけれど、理由(わけ)あって、住むところが無くなったのさ。いっそ大阪に移り住んで、もっと会長の役に立ちたいと思うから、俺の棲む家を用意してもらいたいんだ」
「分かったよ、用意できたら連絡する。じゃ、頼むよ。吉報を待っている」とは言うものの、本当にうっとおしい奴だと溜息つきながら電話を切る。金への欲にまみれた極道の様な下品な男が、自分の直ぐ近くに来るのだと思うと俊平は薄気味悪かった。

さて、山村頭取からの打開案が提示されると、帝都紡績は真摯に前向きに検討すると回答して来る。野須川寝具に十億の支援の可否を真剣に検討するから、その前に帝紡グループ内から、十名の優秀な人材を選出し、この問題を審議する諮問チームを編成して、野須川寝具の事業計画について徹底したヒヤリングを行いたいと、ついては野須川龍平経理部長には、資料を持って四日後の夕刻に大阪駅前ビルの帝都紡績本社まで出てくるようにと言って来た。
龍平は、三日三晩事務所に缶詰になって、総ての部門を黒字にする事業計画案の作成に掛かった。なぜヒヤリングを受けるのが各部門の長ではなく、経理部長の自分なのだと悩みながらも、精一杯の収益向上型の事業計画書を部門別に作った。龍平がこれほど各部門の収支について突っ込んで考えるのは、恥ずかしながら初めての体験だ。

ヒヤリングを受ける日がやって来る。他の社員にも手伝ってもらい、ダンボールのケース四箱分の資料を帝都紡績の本社事務所まで運んだ。龍平に質問するのは、国立大学卒業級の学歴を持つ若手エリート

軍団十名だ。それに対して資料を示して答えるのは龍平ひとり。野須川寝具の未来を決める諮問会議は翌朝七時まで続けられた。
諮問チームのリーダーは龍平に、長時間付き合わせた礼を述べながら、次のように締めくくる。
「仮に御社に、当社から十億、なみはや銀行から十億出して、今の急場を凌いでも、その後御社が本当に独り立ちして行けるのかどうかを知りたいのだ。そちらのご意見は伺ったが、後はうちの役員連が納得するかどうかだ。良い返事が出来たらいいが、それは何とも。兎に角、長時間お疲れ様」

一方、自分の事業部の主力工場を売却し、大阪市内から電車とバスで一時間以上も掛かる、京都府の八幡工場へ移転しろと言われた、寝装事業部長の井川専務は、俊平に何度も泣き言を零した。嘗ては野須川寝具の本社工場だった鶴見の寝装工場の就業者は、約百五十名。その内、転勤に応じるのは、せいぜい五十名くらいだろうと井川は見ていた。俊平は、不足する人間は、八幡で集めたら良いと楽観的だが、「転勤を拒否する縫製工は、自分のミシン技術に自信があるのです。そういう熟練ミシン工に恵まれているから、京都山本向けの商品が作れたのですよ。八幡でミシン工を集めても、その人たちが間に合うようになるまでに、こちらが先に京都山本から切られてしまっていますよ」と井川は反論した。
野須川寝具が所有する不動産の含み益は、約二十億円だが、その半分は、市内の人口密集地にあって取得年月が最も旧い鶴見の寝装工場の含み益であった。その十億もの含み益が、俊平や
龍平たちが残した訪販事業の失敗や、ごく最近入社した坂本功の毛布事業の損失の穴埋めに使われるのかと思うと、井川は腹立たしかった。

帝都紡績は、十億円を出すのか、どうかをなかなか返答して来ない。その内に二月の月末となり、再びなみはや銀行が限度超えの融資を実行したから事なきを得た。
三月に入ると東京の田野倉が大阪本社にやって来る。これだけセールスが減ってしまえば、とてもやり続けられないから、三月末で浜松町店、横浜店、千葉店の三店を閉鎖したいと、そして自分も退職したいと頭を下げた。俊平は了承するしかない。ただ横浜店と千葉店は、本社が空家賃を払うから、賃貸契約は解消するなと俊平は命じた。
これで四月以降の東日本は、ニュー渋谷店の一店が残るだけとなる。
三月に入っても、帝都紡績は何の返答もして来ない。
なみはや銀行の怒りは頂点に達した。今のまま三月末も不足資金をなみはや銀行が出すのであれば、その融資残高は、担保の設定額(極度額)を十億超える金額となる。頭取自身が、十億の損失は負担しようと言ったのだから、資金を限度超えで、十億融資するのは良いとしても、野須川寝具の親会社である帝都紡績が、一月末や、二月末のように、黙ったまま何もせずに、三月末をやり過ごそうという戦術なら、なみはや側としても三月末の融資実行は、残念ながら見送るしかないと言い出した。
これで一挙に野須川寝具の三月末倒産が現実味を帯びることになった。
俊平は毛布事業部に簿外債務の全額を負債(借入金、買掛金、支払手形、未払金の類)に計上させる。
しかし井川の寝装事業部の五千万円の粉飾の処理や、恐らく毛布事業部内にもあるであろう社内の粉飾の処理は敢えてさせなかった。
同社の負債総額は、遂に百億円を超える。

思い出したように、竹中から俊平に連絡が入った。皮肉にも、ミツバチ・マーヤの東京本部である新宿店を率いる有働課長が、息のかかった部下七十名を引き連れ、カシオペアに来ても良いと言っているとの話であった。その時期は四月末か五月の初めになるとの話だ。有働部隊は月に一億二千万円は売るだろうと竹中は豪語した。
鶴見の工場の売却先としては、大阪市住宅供給公社が候補に挙がっていた。公社の買い取り予定価格は十八億円。しかしこれも契約は今暫く待ってくれと、即ち工場敷地だけでは面積も、進入路も狭く、大通りに面した裏の工場の買収が同時に出来ることが前提条件だと言い訳していた。
俊平を助ける希望の光がぼんやりと先に見えるようだが、今となっては、総てが手遅れになりそうでもある。俊平は祈る思いだった。

俊平はこれまでの方針を変更し、当月末の和議申請を決意した。長く奈良国際のゴルフ仲間であり、最近はスポーツジムにも通う親しい仲間だった原口弁護士を急遽呼んで、会社が置かれた状況を正直に話して和議申請が出来るのかどうかを相談した。
俊平は、謹慎中の坂本を除く、全部門長を集め、原口弁護士を紹介した。
「みんな聞いてくれ。最悪事態に備え、和議の準備に入ることにした。こちらがその準備を指導下さる原口弁護士だ。幸いにも、原口弁護士事務所には、企業破産、会社更生法、和議法やその他企業間トラブルの問題を扱うベテラン弁護士が揃っておられるから、皆は大船に乗ったつもりで。では原口先生、一言」
「今ご紹介を受けた原口です。皆様、和議を申請なさるのなら、いくらでも指導いたしますが、実際に

成立する可能性は、その中の僅か二パーセント、つまり百社が申請したとしても、成立するのは二社くらいだと言うことを初めに知っておいて欲しいのです。半年という期限内に、殆どの債権者の同意が、特に大口の債権者の同意が必要なのですから」
「先生、期限内に和議が成立しなければどうなるのです」と俊平は不安そうに尋ねる。
「残念ですが、その時点で破産となります。ですから会長、会社更生法では駄目なのですか」
「先生、儂は命をかけて、製造直販の事業を始めました。この事業の行く末を見ないでは、代表取締役を降りる訳にはいかないのです。だから何とか和議でお願いします」
「しかし出しても百パーセント成立しませんよ。だって肝心のメインバンクのなみはや銀行が、この和議に同意する訳ありませんよね」
「それは和議を出してから、誠実に話し合いに話し合いを重ねて、きっと承認いただきます」
「それと失礼だが、申請費用の蓄えは、裏で別に用意して下さっているのでしょうね」
「先生、会社の表にも裏にも金はありません。取り敢えず、一割の○百万円でお願いします。後は先生の事務所と顧問契約して、何十年掛かろうが、分割で払って行きますから」
「親しい野須川さんのことだから、そんな無理なことも聞いてあげたくなります。まあ、とりあえず、和議の準備に入りましょうか。月末迄後二週間ですか。申請の準備が整うかどうかは、皆さんにかかっています。宜しく協力をお願いします。さて経理部長の龍平さん、債務勘定の内訳は出来ていますか」
「はい、ここに」
俊平が前に乗り出し、その中の「支払手形」勘定の内訳を書いた書類を手にした。

暫くそれをじっと見ていた俊平は、突然怒鳴りだす。
「なんだ、これは! 龍平、なんで儂に言わなかったのや、おのれ坂本め!」

第五章 和議倒産 その⑫に続く