第九章(祈りの効用) その11

(筆者が経営する羽曳野市の霊園。最近はお墓には御影石だけでなく強化ガラスなども使用するようになった)

霊園開発を申請する土地で神事を行う、平成四年六月七日日曜日の朝がやってきた。
龍平は宮本まりあから言われた神事に使う、光明の家の「和解の神示」が筆ペンで写経された百八枚の半紙、塩、ペットポトルに入れた水、酒、洗米、榊の枝、ショベルを車に積み込むと、奈良から我孫子の宮本まりあを迎いに行き、二人で大和川を渡って中央環状線を東にむと国道三○九号線を南下して丹南町の桜台ニュータウンに隣接する野須川寝具の所有地へとやって来た。
天気予報では午後から雨であったが、そんな予報は嘘のように青空が拡がり、住宅開発に失敗した後は雑草が生い茂ってしまった四十五軒の更地を太陽が強く照らしていた。
まりあはそんな草むらを見ながら、「夏草や つわものどもが 夢の跡」の芭蕉の句を思い出して口ずさみ、しばし感慨に浸っていた。
二人が立っている入口付近は一番の高台で、丹南町に拡がる農地や、遠くは北野田の街並みや、向こうには泉大津まで望むことができる。
「さあ、始めましょうか」と三千坪の土地の入口に立って、まりあは先ず天津祝詞で修祓を行い、榊の枝で自分や龍平の身体を浄めた。
先ずは入口に近い北東の角にショベルを使って、直径四十センチくらいの穴を掘った。その底に塩、洗米、酒、水を撒き、二十七枚の写経の紙をその上に乗せた。
先ずはまりあが瞑目合掌して招神歌(かみよびうた)を歌った。

「いーきーとーしー いーけーるものをー いーかーしたまえるーみおやがーみー」と神を呼び出す為に歌うまりあの澄み切った声は、かん高いフルートの音色のように、人が未だ住まない三千坪の宅地中に響き渡った。
まりあは巫女になりきっている。彼女の神を招(よ)び出す歌によって、光明の家の大神がまさしくこの地に降臨したと龍平は感じた。
まりあは龍平に「和解の神示」を読むように言う。
龍平は神示が印刷されている聖経を読まずとも、空で暗誦できるのであった。
龍平の暗誦が終わると、まりあは写経の紙に火を点けるように言う。
二十七枚の写経の紙は一挙に燃え上がった。
龍平は写経の紙が燃えて行くのを見ながら、心の中でつぶやいていた。
(神様、どうか罪深い私をお許し下さい。近隣住民と和解してからあなたに祈るべしとは分かっていながら、それが出来ないのでございます。近隣住民が私たちの霊園開発を理解するに至る時をこれ以上待てないのです。今すぐ大阪府知事の霊園事業の許認可が戴きたいのです。勿論、近隣住民様のご理解を得てから墓地分譲を始めるのは身命に換えてお約束いたします)
一つ目の神事は終了した。

「さあ、次に進みましょう」とまりあは、次に南東の角を龍平に掘らせた。
穴を掘ったら、することは繰り返しだ。

ところが、龍平が諳(そら)んじた「和解の神示」の中で、例の「われ嘗て神の祭壇の前に供え物を献(ささ)ぐるとき 先ず汝の兄弟と和せよと教えたのはこの意味である」の言葉が出て来たとき、龍平の胸は潰れんばかりの痛みを感じた。
胸の苦しみを我慢しながら最後まで諳んじると、耳の奥で「おまえはわたしを試すのか」の声が聞こえた。龍平は真っ青になる。
龍平の額から滝のように汗が流れた。まりあはひたすら瞑目合掌して祈っているので、龍平の動揺ぶりは見ていない。
二つ目の神事が終わって、二人で南西の角まで歩いて行くとき、龍平はどうしてか、父親に内緒で負っている借金のことを急に思い出した。二千万円から六百万円余りの残に減らした内緒の借金だ。後二年、このことが父親にばれなかったら、何事も無かったように、借金からも、親への内緒事からも、自分は解放されるのだと思った。泣いても笑っても後二年の辛抱なのだ、と龍平は自分に言い聞かせるのだった。
三つ目の神事が始まった。龍平は再び「和解の神示」を諳(そら)んじた。
ところがこの時は先ほどの言葉の続きにある「汝らの兄弟のうち 最も大なる者は汝らの父母である。神に感謝しても 父母に感謝し得ない者は 神の心にかなわぬ」のところで、龍平の胸は再び締め付けられたのだ。
そうだ、その通りだ、自分ほど親不孝な者がいるだろうか、龍平はこの場所に何を祈りに来たのかさえ、忘れそうになるくらい動揺した。
三つ目の神事が終わった辺りから、空が急に曇りだしてきた。

天候が変わらぬ内にと、二人は最後の四つ目の神事を急いだ。
最後は北西の角に穴を掘った。
最後の神事では、「和解の神示」の先ほどの言葉の続きの言葉を、それを諳んじる龍平の声とは違う声が耳の中で聞こえた。
「天地万物と和解せよとは天地万物に感謝せよとの意味である。本当の和解は互いに怺(こら)えあったり、我慢し合ったりするのでは得られぬ。怺えたり我慢しているのでは心の奥底で和解していぬ。感謝し合ったとき 本当の和解が成立する。神に感謝しても 天地万物に感謝せぬものは 天地万物と和解が成立せぬ。天地万物との和解が成立せねば、神は助けとうても、争いの念波は神の救いの念波を能(よ)う受けぬ」
神は感謝こそが真の和解だと告げる。近隣住民の同意書がほしければ、近隣住民に感謝できなければならないと。それは無理であろう。互いに理解が未だ出来ていないからだ。それより大事なことは、父親と和解することだと神は告げる。それも無理だ。完全な和解に秘密は不要だろう。しかし龍平の親への内緒事は、ひとえに仕入先に誠を尽くす為だ。だから今更借金のことも、現金売上を抜いて内緒で仕入先に払っていることも暴露することはできないのだ。
それでは龍平が何を祈ろうが、父親が進める霊園開発の成功を祈ろうが、無事に内緒の借金が返済できることを祈ろうが、八幡工場での寝具製造の事業が黒字で続けられるよう祈ろうが、兄弟隣人、特に親と真に和解出来ない者の祈りは、何ひとつ聞かれることはないと神は述べておられるのである。

龍平は落胆し、絶望するしかなかった。
また耳の中で見知らぬ男の声が聞こえた。
「カインよ、汝はなんということをしたのか」
弟アベルを暗殺して自分の畑に遺体を埋めてそしらぬ顔で畑を耕すカインを見つけて、神が言われる言葉であった。
自分はなんということをしたのだ、神を欺きながら、そしらぬ顔で神を試す祈りをしてしまった自分がそら恐ろしくなった。
「汝は今日汝のしたことの責めを、これからずっとひとりで負い続けるのだ」の言葉が後ろから追って来る。
達成感に満ちたまりあとは対称的に、龍平は汗びっしょりになりながら、暗い顔で大阪市内に戻った。

三日後の六月十日水曜日、午後三時頃、大阪府の環境衛生課の参事から俊平に電話が入った。
香川大社の霊園丹南メモリアルパークの事業の許認可証に知事が印を押したから取りに来て欲しいと連絡が入った。
龍平は仰天した。なんと光明の家の大神様の力は偉大なのだと。
龍平から礼を言われたまりあも仰天し「神はなんと偉大なのでしょう」と賛嘆した。
坂下は「それは良かった。大前進です。それでは早速三億を用意します。そちらも三億をご用意下さい」とだけ言って電話を切った。

俊平は直ちに府庁に行き、事業許可証をもらって五時前に事務所に帰って来た。
「これが目に入らないか」とばかりに俊平は貰って来た許可証を見せつけるのだった。
確かに知事の署名と公印が押されている。正真正銘の許可証だ。
ところが俊平は龍平に不思議なことを言い出す。
「明日、参事のところに行き、造成工事にかかる許可を貰って来い」と命令したのだ。
龍平は怪訝な顔で「どうして一緒に今日それをもらって来なかったのです」と反問する。
俊平は「この許可証をもらうのが難しいのであって、造成工事の許可くらい誰でも貰うことができるから、お前に言ったのだ」とあくまでも明日府庁に行って来いと厳命するのだった。

翌十一日、龍平は初めて大阪府庁の環境衛生課を訪ね、参事に会った。
「あなたが野須川代表の息子さんですか。それで今日は何のご用でしょう」
「父が霊園事業の許認可が降りた土地での造成工事にかかる許可を参事さんからもらって来いと言うものですから」
「何ですって。あなた、気は確かなんですか。私たちはあなたのお父様から「近隣住民の同意書、つまり二つの自治会と隣接三軒の同意書が揃うまでは、工事にも、販売にもかかりません」と念書をいただいているのですよ。その様な念書を戴いた上で、昨日府の許認可証をお渡ししたのです。だから両自治会との協議を早く始めてもらって、一日も早く同意書を貰うことです。こんな環境衛生課に何度来られても時間の無駄ですよ」


龍平は愕然となった。光明の家の大神様の力もこんなものだったのだろうか。
四日前のあの神事は何だったのだろうか。
まりあには、宮本光子先生には、なんと報告するのだ、と龍平はしょげ返った。
急いで府庁の公衆電話から俊平に電話をする。
龍平と俊平は大喧嘩になった。
環境衛生課の参事も時をおかず、桜台西自治会の下村区長に、香川大社大阪宗務局から申請が出ていた桜台西一丁目に隣接する三千坪の土地での霊園事業の許認可を審議の結果、出しましたと連絡した。
俊平から、許可は降りたが、造成工事に入るにはやはり近隣自治会の同意が必要なんだと知らされた坂下は、想定の範囲だったのか、別段驚いた様子は見せなかった。
事業には関係が無いまりあの方が、実情を知って意気消沈してしまう。
大阪府から曲がりなりにも霊園開発の許可が出たことに最も過激な反応を示したのは桜台西自治会だ。
十二日、自治会の幹部たちは大挙して大阪府庁を訪れ、墓地事業許認可の撤回を陳情する。
しかし環境衛生課の参事は「一旦知事が許可したことは撤回出来ません」ときっぱり拒絶した。
これによって桜台西自治会は、桜台西一丁目の町中に「ハカいらん!」「府は墓地の許可を撤回せよ!」「墓地反対!」の立て看板が所狭しと並べることになる。
遂に桜台西自治会と俊平が代表を務める香川大社との戦争の幕が切って下ろされたのだ。
桜台西自治会の幹部たちは何度も議論を重ね、やっと七月になって、霊園事業者から説明を聞く住民集会を開くと俊平に連絡してきた。住民を集めて業者を吊し上げようと言うのだ。

第九章 祈りの効用 その⑫に続く