第二章(個別訪問セールス)その16

(筆者の前の会社の訪販事業初期のカタログから、山本陽子さんをCMに使っていた。)

翌日も龍平の車両長は田村店長だった。しかしその日は二人車両だ。田村が突然、ハンドルを握る龍平に奈良の学園前に向かうよう指示をする。
「今日は野須川君の自宅周辺で営業する。部長命令さ」
龍平はぎょっとする。ミツバチ・マーヤも、部長の藤崎も、しつこく自分のことを疑っているようだ。
龍平が果たして本名を名乗っているのか、住所を偽っていないか、履歴書の住所にある家の表札を確かめたいのか。
一時間半、高速道路と幹線を走り、龍平の履歴書にある住所、奈良市西郊の新興住宅地、学園南一丁目に着く。田村は龍平の家の表札が、野須川であることを確認する。だが、呼び鈴は押さず、向かいの家から訪問を始める。
「お向かいの野須川君が勤務する、ふとん屋のミツバチ・マーヤです。野須川君が住む町、彼がお世話になっている町をご縁だと思い、何か寝具のご用はないかと今日、廻らせてもらうことになりました」と田村はインターフォン越しに丁寧に挨拶する。
この辺りの住宅地は元々の奈良県人はおらず、大阪市内から静かで緑豊かな住環境を求めて移り住んだ人たちばかりだ。一家の主が近鉄電車に小一時間乗って、大阪市内迄通勤する町だから、近所付き合いも無く、龍平が寝具関係の会社の跡取り息子とは聞いていたが、その社名迄知る人はいなかったので、田村が何軒の家を廻ろうが、龍平の履歴書の嘘がばれることは無かった。

田村は一軒家での営業は苦手だったので、藤崎部長から頼まれた用件はこれで済ませたと、奈良市西郊地区での営業は適当に切り上げ、北西の北田原へと移動し、そこから磐船街道を下って、北河内の交野方面の団地へと移動した。
この日龍平は、なんとか敷布団一本売って、ゼロ打ちにならずに済んだ。

この日を境に、龍平は店長クラスの車輌長とは一緒に廻ることがなくなり、一般の車輌長を固定した相棒にしてもらうことになる。
島崎の不安は完全に払拭されたのだろうか。
龍平は、ミツバチ・マーヤのセールス体験を通じて、大阪府下、兵庫県下の団地などを廻って、実に多数の主婦たちと言葉を交わした。この仕事をしなければ一生出会うことが無かった人々だ。
龍平はそれまで国立大学出という誇りを持って、商社や問屋、量販店相手に営業して来た。だが、そこで売買された商品が、川下へと下って行った先、つまりどんな人たちがそれを購入し、消費したのか、には関心が無かった。敗戦の混乱期をやっとの思いで脱して、ただ自らの生活レベルを人並みにしたいが為に、住宅、家電、耐久消費財を月賦漬けになってまで、消費意欲を燃やして来たこの一般大衆によって、日本の高度経済成長が支えられていることを、龍平は目の当たりに思い知ることになる。

二週間が経った。野須川寝具から研修目的で来ていた六名の内、四名が成績の悪さで、藤崎から既に辞めさせられていることに龍平は気づいた。

残っているのは、龍平と中川の二人だけだ。中川は、商社日繊の寝具部を辞めた阪本功が創った、今は無き毛布問屋「改良寝具」に勤務していた二十代の男である。
東京ではカシオペア事業部の営業部員全員を差配することになる龍平は、一営業に過ぎない中川などに負けたくない。また営業だけが取り柄の中川は、社長の息子だから幹部候補として、一時の営業実習を体験するに過ぎない龍平などに負ける訳には行かない。この二人は、俊平社長に命じられた四週間を満了するまで、ミツバチ・マーヤを辞めさせられないように、競争しながら頑張るのだった。
三週目の最後の日になった。龍平の売上は六十万円をやっと超えたところだ。一方中川は順調に八十万円を突破する勢いだった。
藤崎部長は中川には「期待しているから、来月は歩合をとってくれ」と励ますが、龍平には「一か月待たずとも、そろそろこの仕事に向いているのか、判断して良いのでは?」と冷たく突き放すのだ。
龍平も負けてはいない。
「結構この仕事が面白くなって来ました。後一週間で百万円に達するよう頑張ります」

龍平の四週目、藤崎は、龍平に又別の車両長と組ませて、毎日一戸建てばかりをアタックさせる。
結局龍平の四週間の売上は七十万だ。藤崎との最初の約束通り、辞表を出さねばならない。いずれにせよ、これで俊平社長からの業務命令は満了させたのだ。龍平は車輌長に挨拶して、ひっそりと退社した。四週で百万を突破した中川は営業マンたちから惜しまれながらも、別の仕事がしたいからと龍平と同じ日に退社した。

数日後、一か月分の給与をもらうため、龍平は再び江坂のミツバチ・マーヤを訪れた。
部長の藤崎が出てきて、直接給与を龍平に手渡し、入社して初めて聞く敬語を使って語り出した。
「野須川さん、又どこかでお会いするかもしれませんね」
「そんなことはもう無いと思いますよ」
「人生何が起こるか分かりませんよ。世間はいたって狭いものですからね」
「もう寝具の仕事はしないつもりでいます」
「それより、訪問販売という営業体験は、あなたにとっていかがでしたか?」
「お蔭様で、私には価値のある体験になりました。今後どんな仕事につきましようが、大いに役立つ筈です。ですから、ミツバチ・マーヤさんで手取り足取りご指導下さったこの一か月間の日々は、同乗下さった営業の方々のお名前と共に、生涯忘れないことでしょう。ほんとうに藤崎部長、お世話になりまして、ありがとうございました」
「こちらこそ、またお会いするときまで、お元気で」
藤崎はどうやら龍平を、まだ身分を隠して入社した者だとの疑いは捨てずに、別の業界のどこかの会社で、ドア・ツーで販売する必要が発生した為に、幹部として自発的に研修に来たくらいに思っているようだと、藤崎の口ぶりから龍平なりに想像を巡らしていた。
しかし龍平は、この僅か二ヶ月後、自分のしたことが、何の罪も無い藤崎の人生を、大きく狂わせることになろうとは、想像だにしていなかった。

第三章 東京と大阪 その①に続く