第七章(終わりなき闇夜)その13

(現在の御堂筋本町にあるセントレジース・ホテル大阪。嘗てはここに商社のイトマン(伊藤萬株式会社)の本社ビルがあった。平成二年五月、日経新聞の報道で、同社の不動産投資による借入金が一兆二千億円に及んだことが明らかにされたことが切っ掛けに捜査のメスが入って、闇社会に三千億円以上の金が流れたことが露見して、平成三年七月には、河村社長を初めとして関係者六名が特別背任罪で告訴され、翌年住金物産に吸収合併された。商社イトマンは百十年の歴史に幕を閉じた。)

壺井が言った意味が龍平には分からない。
「お持ち帰りって何のことですか」
「だから社長は、今、横にはべらしているこのお嬢さんを、宿泊するホテルに連れて帰っても良いと言うことや。今夜のは、つまり飲み代も、この娘(こ)の持ち帰り代も全部儂の奢りや。社長から貸金の利息では、大分儲けさせてもらったし、最近布団の方は注文できなくて申し訳ないと思っているからな。社長は朝までこのお嬢さんを好きにできるんや。何やったら、このお嬢さんを朝まで寝かせなくても良いんやで、ははは」
「普通、客は女性の持ち帰りに、お店にいくら払うのですか」
「五万円が相場や。台湾クラブは台湾風に朝までお泊まりやからな。デリバリーのように一発終わったら、女がさっさと帰ってしまうのやないんやで。店は飲み代の領収書は出すが、五万円の方は出さんからな。ははは。社長、どうや、タイ人女性は珍しいから、一度味見をしてみたいと思うだろ」
龍平は、借金に加えて弱みを壺井にこれ以上握られるのは、真っ平ご免だと思った。
「いいえ、私にはタイ人女性は珍しくないのですよ。実は太平洋商事時代に、職場の先輩から毎週の様に、タイ人女性がホステスをする宗右衛門町の外人クラブに行っていましたし、日曜日には先輩たちとグループで彼女らとドライブを楽しんで来ましたしね。ですからせっかくのご配慮ですが、私は壺井社長からの借金が完済できず、とてもそんな気になれませんので、それはお断りします」

龍平は嘗て太平洋商事の社員らと共に英会話を身に付ける目的で、外人クラブのタイ人女性と遊んだのは事実だが、男女関係になったという意味ではない。事実太平洋商事では、世界に胸張る商社マンの誇りを常に堅持せよと、セックスを商売とする店の女は別にして、飲食店の女性も含め、結婚を前提としない女性と男女関係になることは厳しく戒められていた。壺井は勝手に誤解している。龍平は壺井の誘いさえ拒否できるなら、その誤解を否定するつもりはなかった。
「そうか、社長はタイ人女性には飽きてしまっていたのか。それじゃ仕方ないな。困った客や。この子ら、客が持ち帰らなかったら、今夜の日給はなしになるんや。そうなんや。台湾クラブという商売は、ホステスの労務費がゼロなんよ。しゃあないな。そら、お二人さん、立って、これで君らの仕事は終わりや」と壺井は財布を取り出し、自分たちに酌をした二人のタイ人女性に気前よく一万円ずつ、チップを手渡す。そして龍平を振り向いて言った。
「ホテルはどこやった」
「ニューヨークホテルです」
「プリンセスホテルやったら近かったのにな。近いとこ、とれなかったのかいな。まだいろいろ話あるし、ぼちぼち話しながら歩いて行こか」
龍平たち二人は、歩いて半時間くらいの距離にある新宿ニューヨークホテルまで、話ながら歩き続けた。
龍平が知りたいのは、何故こんな商売を壺井が始めることになったのかである。そしてこの商売が、投下した資本を回収する利益を産むのかどうか、女を抱くことより、そちらに興味津々だった。
壺井はこう説明した。

「昨年の九月やった。日本で台湾クラブを経営する台湾人の華僑の女がやって来て、ちょっとしたトラブルが発生して、金が緊急に要るんだと言って来たから、儂は組に相談して七百万円を貸してやったんや。するとその女、僅か二ヶ月で全額返しよったんよ。それで儂らも気づいた。台湾クラブっていうのは、どうやら想像以上に儲かる商売やと。それでその女に、儂と組んで一緒に台湾クラブやらんかと誘ったんや。そしたら乗ってきよったんよ。それで十一月の月末やったが、さっきの店を出したと言う訳や」
「あのお店にいくら掛かったのですか」
「なにせ新宿歌舞伎町のど真ん中やからな。敷金、礼金、改装費も掛かったし、あの女の子たちを他店から引き抜くスカウト料もそこそこ掛かったな。それに、あの娘たちの住むところも用意したらなあかんしな。締めて五千万円くらいやな」
「五千万円! そんな大金、どうして用立てたんですか」
「そんなもん、儂らは電話一本や。それで来月もう一店出す。総額一億の投資になるな。だからな、社長、あの七百万、一日も早く都合つけて返して欲しいんや。まあ同友社東京支社を当てにしてるけどな」
「まさか、同友社の役員幹部に貸しがあるって、さっきのお店に連れて行ったんですか」
「さあ、儂は知らんな。ははは。あの商売は儲かるさ。なんせ人件費が要らんのやからな。もう布団の商売も、雑貨の商売も、やってられないね。だけど同友社の商売は別やで。取り敢えず入った買注文は、ホワイトダック九十のシングル三十枚、色は赤、青、半々や。柄は任せるから、すぐに儂のところに送ってよ」

龍平が大阪に戻って二週間が過ぎた月末近く、壺井が慌てて電話してきた。
「社長、大変や。同友社は、社長とこの布団から五枚抜き打ちで、品質検査に出したんや」
「何か、問題でもあったのですか」
「いいや、喜んでくれ。全部合格やった。同友社と取引しようとした羽毛布団メーカーでは、抜き打ち検査にパスしたのは、社長のとこだけやそうや。それで大阪本社の野崎社長がいたく感心されてな、メーカーの責任者と会いたいと言って来たのや。それが明日の午後一時なんよ。儂も明日朝の新幹線でそちらに行くから、そやな、できたらお父さんにも一緒に行ってもらいたいな。社長からお父さんに頼んでよ。取引窓口は東京支社ではなく、大阪本社寝具部になるそうや。取引額は大きくなるぜ」
翌日、大阪のなにわ筋稲荷界隈では一際高いビルを建て、本社にする同友社の最上階の社長室に、俊平と龍平と壺井の三名が訪れた。
同友社は全国に星の数ほどある現金問屋の最高峰であり、日曜雑貨の総合商社であって、最早同社を「バッタ屋」などと言う者はいない。
社長の野崎は龍平と同じ歳であったが、高校を出て入った現金問屋ですぐに頭角を現した。ところが課長に昇進した途端に会社が倒産してしまう。野崎は転職しようとは思わず、二十七歳で起業する道を選んだ。すると嘗ての上司たちが、是非とも野崎に仕えたいと集まって来る。野崎は若かったが、人望とカリスマ性があった。それが一九七四年の同友社創業の経緯である。
野崎は微笑みながら、壺井に、野須川寝具さんは本当に誠実なメーカーだ、良いメーカーを紹介して下さった、と礼を言った。そして寝具部の部長を呼んで、龍平に紹介した。

すると俊平が、野崎社長と壺井の二人を代わる代わる見ながら話し始めた。
「壺井社長、私こそあなたにお礼が言いたいんです。普段から息子が大変お世話になりながら、こんな素晴らしい会社を紹介して下さって、なんとお礼を言ったら良いのか、言葉が見つからないくらいです。ですが、壺井社長、私はあなたに頭を下げてお願いがあるのです」
壺井はびっくりして目を大きく見開いた。
俊平は続ける。
「天下の同友社さんなら、うちのようなメーカーの商品を、まるで衣の上から痒いところを掻くように、御社をわざわざ経由して買わなければならないのなら、どんなに買いたくても、買いにくいと思うのですよ。このまま商売を始めても、結局は長続きいたしません。壺井社長、ここは私に免じて、この同友社さんの商売から、手を引いていただけないでしょうか。いや、ほんとうに申し訳ありません」
壺井は仰天し、言葉を失っていた。
そこへすかさず野崎が言葉を被せた。
「そうです。その通りです。私が言いたくても、なかなか言えなかったことを、野須川俊平会長が、よくぞ思い切って言って下さいました。壺井さん、申し訳ないが、是非ともその通りにして下さい。あなたには別の形で、東京支社からお礼をいたしますから」
龍平に、同友社という強力な得意先が生まれた瞬間だ。
かくして壺井の七百万円の貸金の取り立て作戦は失敗に終わることになる。

なにわ筋稲荷には四ツ橋から距離も近くて、龍平はよく同社の寝具部を訪れることになる。
ある日、寝具部長と商談テーブルが並ぶコーナーで商談をしていると、その隣にある見本の陳列ケースのガラスを、せっせと磨いている作業着の男がいた。ガラスを拭きながら、商談している各グループの話を聞いているようにも、龍平には見える。その顔を見つめて、龍平はぎょっとした。野崎社長である。
龍平は驚いて立ち上がり、挨拶しようとして、寝具部長に止められた。
「あれはうちのボスの趣味なんですから、お客様は気づかないふりをしていて下さい」
野崎が商談コーナーで盗み聴きしたかったのは、従業員が力にものを言わせ、無理難題を仕入先に押しつけていないかであった。
野崎は、一階の玄関ホールのエレベーターの横に、業者が直接社長に苦情を書いたメモを容れる社長室直行苦情受付ポストを置いていた。
野崎はそれほど口酸っぱく、仕入先を大事にせよと教えてきたし、自ら実行してきた。
この野崎社長の経営理念が、後に霊園の経営者になる龍平に、大きな影響を与えた。
ある日、龍平は同友社の創立二十五周年パーテイーに招待された。市内の大ホテルの宴会場を借りた、盛大なパーテイーだったが、龍平は驚いた。それに招待されているのが、数百名の従業員と、数百名の仕入れ先の業者だった。得意先は一社も招待されていなかったのだ。これも野崎の方針だった。
ここにもバブル景気とは無縁の、商売の本道を行く経営者がいた。

 

第七章 終わりなき闇夜 その⑭ に続く