第一章(家族、夫婦の絆)その3

(写真は筆者の堺市美原区の霊園の今の姿)

野須川龍平が父俊平の跡を継いで霊園「丹南メモリアルパーク」の経営者(宗教法人香川大社代表役員)となって以降、日本経済はバブル崩壊の衝撃から始まった資産デフレによって景気は沈滞し、中小企業にも、大企業にも、労働者にも苦しい日々が長く続いた。
だがことこの霊園に至っては、俊平の死後、関空に向かう阪和道に奈良県南部の住民を誘導する南阪奈道が開通し、目の前に高速道の出入口が出来たこともあって、不況どこ吹く風か、墓地の使用者が年々増加する繁盛ぶりだった。
郊外の民営霊園での墓地使用率は、八十パーセントが上限と言わたジンクスを覆し、開園から十三年後の平成十九年春には、市街地の寺院墓地顔負けの九十パーセントを超える使用率となる。
南阪奈道に沿う三百坪の土地を購入し、同年秋、「はびきのメモリアルパーク」を開園した。
以後平成二十二年夏には同霊園を千坪に、平成二十六年の春には千八百坪にと、隣接地を購入しながら拡張して行ったのである。
宗教法人での決算開始から十二年後の、平成二十四年三月の決算期には、かつての野須川寝具産業の資本金と同じ額の二億円にまで「基本金(民間企業なら資本金)」を利益剰余金から積み上げるまでになっていた。
このように話すと、バブル後の所謂(いわゆる)「日本の失われた十年」に、龍平が事業の成功者となる為に、どのように行動したのか、そこが知りたいと言われるのかもしれない。


しかし霊園経営者になって以降、龍平はこれと言ったこともしていないし、それほど必死に仕事をした訳でもないのだ。
日本の失われた十年と時期はずれるが、霊園開園までの彼の人生の「失われた十年」(訪販事業が下降期に入り、様々な異業種事業を展開した昭和五十九年から平成五年まで)の方が、龍平は睡眠時間もろくにとらず、何倍も働いていた。因みに霊園事業では、残業すらしたことがないのだ。
重要なことは、行動では無く、考え方、価値観が、それまでとは全く変わってしまったことである。
付近住民の同意書とりでの辛酸を舐める苦労を経て、同意書を奇跡的に全部揃えることができた歓喜、感激や、いろいろな人の助けや励ましがあったからこそ、それができたのだとの心からの深い感謝の思いが、龍平の心を変えたのだろう。
それまでは持てる生産設備を使い、持てる原材料を使って、如何に付加価値(利益)を上げるか、そうして作った製品を如何に数を売るか、を四六時中考えて来た。それは百パーセント自己の都合から始まる発想だった。だから友達付き合い、同窓会、社会奉仕などには一切関心がない。それが商売人のあるべき姿なのだと。
しかし今は、墓地を使用するお客様が、霊園に出入りする様々な業者の人々が、霊園に待機して営業をしてくれる石材店の人々が、霊園代表に何を求めているのだろう、霊園代表として何を彼らに与えられるだろう、と前にいる他人の都合を二十四時間考えるようになったのだ。
龍平は、友達付き合いの大切さにも理解を示し、同窓会の幹事にもなり、社会奉仕活動には積極的に参加するようになった。

その結果かどうかは分からない。だが不思議にも、龍平を騙そうとする者は現れず、むしろ様々なジャンルで、最高の協力者が、必要なタイミングで、向こうから来るようになるのは確かである。
そして心を満たした感謝の念が、心の隅にあった不満の念、陰の念を払拭したかのように、龍平は何事にも前向きな、ポジテイブな、笑顔の絶えない経営者に変わった。
霊園の開発絡みで成功報酬を要求した人々は、開園後、俊平に懇願され、代金を回収する代わりに墓地を何区画か貰っていた。石材店の販売に従い、順次金になるからしばし待てと言い聞かせられていたのだ。しかし開園から何年経とうが、造成費や建築費等の支払いが優先する事情を知る石材店は、それらの区画を外して販売して来た。
俊平が亡くなると、それらの人々は、これ以上待てぬと、持てる墓地の現金化を一斉に求めて来る。
龍平は嫌な顔ひとつせず、支払いを待ってもらった詫びを入れ、分割払いにはなるがと断りを入れて、支払いを即時実行した。総額は二億円を超えたが、それも数年内に完済する。
羽曳野市での開発申請では、監督官庁から霊園経営について厳しい意見がついた。
龍平の霊園経営は一過性の墓地代収入に頼り過ぎている、複式簿記では利益は出ているように見えるが、本当の収益は持てる現金が総てなのだから、もっと現金収支を見ろ、と。
霊園の経営改善のアドバイスと龍平は素直に前向きに受け取り、墓地管理料だけで管理運営できるまで墓地の拡張を続けるという具体的な経営目標を立て、自らの役員報酬も含め、経費を最小限に圧縮し、精一杯資金を残すことに努めることになった。

さて先代の俊平が亡くなった一年後に話を戻すが、龍平は野須川家の墓を新たに丹南メモリアルパークに造った。
実は俊平の生前、龍平が気にしていたのは、返済できずに残った俊平からの借入金の処理だった。
俊平が亡くなったら債権者には譲渡しなければならない。仮に返済資金があって生前に返済しても、俊平が債務者である限り結果は同じ事だ。
どうしたものかと悩んでいると、癌が再発し、再び入院となった時に、親の墓を彦根から丹南町に移したいと俊平がぽつりと言った。
俊平夫人はそんなことは退院してからと嫌な顔をしたが、龍平はその言を待っていたとばかりに、はいそうします、と父親の貸付金を同額の墓地に変えてしまった。
だから野須川家の墓地は、丹南メモリアルパーク一番の聖地数の墓地になった。
平成十三年十二月、家族や野須川寝具の元社員などを集めて墓前で一周忌の法要がとり行われた。
埋葬者の名を刻む霊標には、埋葬されてはいない俊平の親の平三郎夫婦、そして平三郎の親の平七夫婦の俗名戒名が一緒に彫られていた。龍平の先祖への感謝の気持ちと、霊界からの守護を祈る気持ちが込められてのことだろう。
これからは暫く、龍平の父、野須川俊平の生涯や龍平の生い立ちを振り返ろう。

(第一章 家族、夫婦の絆④に続く)