第三章(東京と大阪)その2
(写真は現在の東京都板橋区中丸町、この田吾作寿司は往時のままだ。左手の南町側に訪販会社東京一号店があった)
日寝との合併話は後で触れよう。
東京に派遣される人間が増えた。それも一世帯だ。
龍平がミツバチ・マーヤでの研修を終了し、長村専務が本部長を務める財務本部に戻ったときの話だ。
野須川寝具が繊維原料商の野須川商店だった頃から、何十年も俊平の傍にして経理部長を務めたのは山田だった。あの昭和四十三年の本社工場が火事で全焼した時に、契約した利益保険の保険料を払えと指示されていたにも関わらず、失念していたあの山田経理部長である。
火事の更に五年前、資金不足に陥った昭和三十八年の大ピンチを救ったのは、繊維原料商だった俊平の昔の取引相手だった扶桑紡績の浜岡常務だが、その浜岡常務が子会社に移ってから、俊平に頼まれ、子会社で定年を迎える管理部門の人材をひとり、野須川商店に紹介したのだ。それが今、野須川寝具産業の専務取締役、財務本部長を務める、長村である。龍平が大学を出て、太平洋商事に入社した頃のことだ。
山田は暫く長村の下で経理部長を続けるも、三年後、泉州忠岡に毛布工場が出来ると、そちらに赴任した。
俊平は、長村に龍平が東京に行ってしまっても、ビジコンは問題なく使えるのか?と尋ねた。
高齢の長村は、ビジコンについては殆ど理解しておらず、正直に「使いこなして行く自信はありません」と答えてしまう。
コンピューター・メーカーの世界のIBC社に無理言って、プログラマーの大山まで付けてもらい、リース契約で購入した機械だから、簡単に放り出す訳にも行かない。
またこんなことで龍平と社員の前で喧嘩したくもない。ビジコンのことでは、龍平と、何度みっともない口争いをして来たことか。
中小企業でも、ビジコンを入れるのが時代の要請であることは、俊平も理解していたが、コンピューターという機械の仕組みそのものが、どう理解しようとしても、理解できないのは、長村と全く同じだった。
俊平の頭には、いくら時代の要請とは言え、1000万円もする代金は高額過ぎるという観念があって、それも不満なのである。
経営のバランスを考えるなら、ビジコンを入れることで、事務員を三人合理化するなら、三年で投資コストの元はとれるのだ。
しかし俊平は、他の中小の企業家と同じく、雇用する従業員の数こそが、売上や払った法人税の額よりも、自らの甲斐性を世間に見せつけるバロメータなのだ。そういう風潮の時代だった。初対面の人物が企業家だと知ると、たいてい従業員の数を問う時代なのだ。だからコスト削減の為に人を減らすなど、まったく俊平の頭に無かった。
リストラとか、合理化などという言葉が、経営指標のように言われ出すのは、もっと後の時代である。
ビジコン問題をどう解決しようかと悩む時に、思わぬ解決方法が見つかる。東京の山崎から電話を受けた時に閃いたのだ。
山崎は、東京の拠点として格安物件を紹介した自分の手柄を、俊平に褒められたいとねだって電話して来る。
そしてその後にこう言った。
「それはそうと、私が指導する訪販会社のシステムでは、将来店舗数が増えて行きますから、最初からビジコンを設置する必要があるのです。ところで電電公社と提携する某社の機械ですが、この事業にうってつけの機種なのですよ。だから野須川社長、東京で使うビジコンの購入を、私に任せていただけないでしょうか」
何でもかでも金儲けに結びつける奴だと、俊平は思わずむっとした。そこで思わず、
「先生、悪いんだが、そのビジコン、既に発注済みなんだ、もう少し早く聞いていたらね」と断った。
そこで俊平は翌朝、龍平を呼んで、ビジコンの東京移設を命じた。そしてプログラマーの大山には、家族共々東京に移住するよう龍平から説得せよ、と指示した。
自分のプログラマーとしての腕に自信がある大山は、野須川寝具で、今後万が一退社することになっても、東京で仕事を探す方が楽だと知っていたから、会社の申し出を承諾し、会社には一切頼らず、自分で引越先を探し、自分で資金を出して賃借契約をした。
大山の家族の引越は三日後の日曜日だ。牛山事業部長が東京に入るのも同じ日曜日だ。東京のカシオペアは、いよいよ七月四日月曜から営業開始だ。
二台の日産キャラバンに荷物を積み終え、龍平がそろそろ横堤の本社に戻ろうとした時だ。本社からも龍平にすぐ戻るようにと電話が入った。
何があったのだろうと本社に戻り、先ずは愛車日産バイオレットのキーを総務部に預けた。元々この車は二年前、俊平が買い与えたものだ。明日から東京に赴任なら、この車は不用になるのだから、俊平に一旦返すことにした。俊平はこの車を査定価格で会社に売却するつもりだ。
龍平を呼んだのは寝装事業部だった。先ほどミツバチマーヤの関西支社から突然電話があったと言う。
「まるで暴力団のような怒鳴り声で、野須川龍平とはおまえとこの社員か?と尋ねて来ました。覚えておけよとも言ってましたよ」
龍平は顔色を変える。慌てて妻の智代に電話し、隣町のあやめ池の俊平の家に、一時避難するよう指示してから、牛山に面会を求めた。
牛山の説明は、こういうことだった。
昨日、日寝の東川社長と野須川俊平社長が、大阪で創設するカシオペアと日寝との合併案の詰めを行った。だが主導権をどちらで握るかで、なかなか纏まらない。俊平にすれば、金を出すのはこちらなのに、経営の主導権を相手に握られるのは我慢がならない。しかし東川が指摘するのは、野須川寝具側に、訪販のテクニックを教えられる人材がいるのかどうかだ。だから日寝側に主導権を渡せと言われるのなら、俊平も黙ってはおれない。
実を言うと、前々月から前月にかけての一ヶ月間、息子の龍平を始め六名の社員が、ミツバチ・マーヤで研修を受けて来たのだし、訪販会社の運営システムは、東京の山崎がコンサルを引き受けていると、俊平は門外不出の企業秘密を漏らしてしまったのだ。
しかし結局、この合併話は破談になった。
その後すぐに東川社長が、東京新宿のミツバチ・マーヤの遠藤社長に、嘗ての部下として、俊平から聞いた話を注進したのだろうと牛山も龍平も推測した。
寝具訪販では全国を席巻するミツバチ・マーヤである、こんな話を聞いて黙っている筈は無いと龍平は思う。
その夜、深夜の十時頃、龍平が荷物を満載したカシオペアのロゴマークを大書した日産のバンで、あやめ池に向かうときに、学園前の自宅の前を通過した。真っ暗闇の中の門の前に、たったひとり立っている男の姿が見えた。藤崎のようにも見えたが、違う男だったかもしれない。
翌日七月一日金曜日、早朝から龍平は智代や父母に別れの挨拶をして、東京に出発した。
藤崎がミツバチ・マーヤを退職し、独立して別の寝具訪販会社の社長になったという噂話が龍平の耳に入るのは、翌八月だった。
その前に山崎は、カシオペア訪販事業のコンサルを辞退していた。それによって山崎はミツバチ・マーヤとの顧問契約はなんとか維持したようだ。
第三章 東京と大阪 その③に続く