第九章(祈りの効用) その 7

(筆者の職場の商談風景。モデルさんを使って販促目的に撮影)

龍平が戦後に出来た宗教団体「光明の家」の練成合宿で学んだことは、人間は神が創った完全円満な実在の実相世界に生きているのだが、「この世」と表現して、自分の周りの環境だと思っている世界は、神が創った実相(ほんとうの)の世界ではなく、人間の心を通して映し出された「現象世界」なのだと言うことだ。病苦から解放されたい、貧乏から解放されたいという人間の願望は、現象世界に生きているからこそ起こる問題なのである。
しかもそういう不遇の状況は、自らの「心」が注文したものであると、「光明の家」は言い切った。
龍平は依然として、今日は何日だと毎日毎日確認しなければならい日々が続いている。殆ど毎日が、どこか金融機関の返済の日だった。もしもうっかり忘れたら、龍平は分割返済ができる資格を失ってしまうのだ。
サラ金の会社はまだ良い。返済したすぐ後で、枠の空いた分をまた借りられるからだ。
だが信販(自動車ローン)と龍平個人の信用枠が取り消しになったカードローンは、新たな借入が出来ないから返済するだけだ。それによって急ピッチに借入が減少し、龍平の手落ち資金が不足するなら、また新たなサラ金の会社が増えることになった。
龍平は個人が抱える借金の残高を年初の九百万から、ゆっくりゆっくりのペースでしか、減少させることが出来なかった。
龍平は自分を借金苦から絶対に逃れられない「多重債務者」に陥っていると実感する。光明の家の教えで言うならば、これも龍平自身の「心」が招いたものなのだ。

であれば、龍平は何としても自身の「心」を正常に、平静に整えたかった。五月のゴールデンウイークを使った光明の家宇治練成の合宿から帰った龍平は、それから毎朝、実相観という、実相世界の深海の中の竜宮城の山門の前で瞑目合掌して瞑想業をする自分をイメージして、心を整える訓練を行じるようになる。
そして自身が貧しさから解放されることを、神やご先祖の霊魂に手を合わせて祈ることは、何も間違ったことではないと知らされた龍平は、父親俊平が不在の時を見計らって、仏間の仏壇の前で、光明の家の創始者、教祖高橋に天下った神の歌「甘露の法雨」を「お経」として誦げることになった。
「甘露の法雨」は「お経」の体裁のものもあれば、小さなブック型のものもあった。龍平はそのどちらも持って、電車の中では小さな声でブック型の「甘露の法雨」を読み続けた。
宇治の練成から帰って一週間後、大阪府繁栄経営者会中央支部の田中事務長から電話が入って、次の土曜日の夜に、支部の年次総会を上本町の中華料理店で行うから、会費は八千円だが、繁栄経営者会の事務局長の推薦で入ってくれた野須川さんにも、是非参加してほしいと言って来る。龍平にとって今は八千円を支出するのは痛かったが、ここは参加するしかないと思って、「はい、喜んで」と返事した。
しかしその土曜日に限って、仕事のけりがなかなかつかなかった。龍平が中央支部の年次総会に駆けつけたのは夜の八時前、総会はとっくに終わり、その後の懇親会も終わりがけで、事務長の田中から、八千円の会費はとられたものの、食べるものは殆ど残っていない。
田中は龍平にこの度新しく支部長になったという人物を龍平に紹介した。本町で歯科病院を経営する院長だった。

田中は会場の前に進んで、龍平を呼び寄せ、参加者に新会員の龍平を紹介したいと言った。
参加者は四十名くらいだろうか。ざっと見たところ、男性が七割、女性が三割の割合だった。
「皆さん、ご静粛に。今月から僕らの仲間になってくれました野須川龍平さんを紹介いたします。寝具の製造業を営んでおられます。工場は京都の八幡ですが、事務所は市内の北堀江、つまり地下鉄の四ツ橋駅上がったところです。野須川さん一言どうぞ」
「野須川龍平です。私は会社で社長と父親は会長と呼ばれますが、正しくは父親が社長、私は副社長です。まだ光明の家はよく分かりませんが、どうぞ宜しくご指導をお願いいたします」
「そこで今日は私から話があるのです。長い間、この田中が事務長を務めさせていただきましたが、この年次総会をもって事務長職を野須川さんにお願いすることになりました」
「何、それ、田中さん、そんな話聞いてないよ」と龍平は慌てた。
「この支部の事務長なんて、僕でもやって来れたんやから、誰にでも出来るさ。頼むよ。僕も手伝うし、皆も手伝ってくれるから、僕の頼みを今日のところは黙って聞いておいて」と龍平に囁くと、田中は声を大きくして「皆さん、賛成していただけるなら、拍手で承認をお願いします」と頼んだ。
参加者の殆どが酔った勢いで拍手をするから、龍平の事務長就任が決まってしまう。すぐに新支部長の歯医者の先生がやって来て「野須川さん、これからご協力をお願いします」と握手を求めて来た。
龍平は呆然と拍手の中に立っていた。気持ちの余裕の無い羽毛布団、固綿敷布団の受注営業に、そんなボランテイアをすることなど、一体全体可能なのだろうか。そんなことを知ったなら、父親の俊平ならそんな会は直ぐにでも止めてしまえと言うに違いなかった。

中央支部には、責任ある役職には就かないが、口ばかり出す、光明の家男性組織の古手幹部がずらっと揃っていて、そんな人たちとの軋轢に苦しみ、事務長の田中は職を投げ出したのが実態だった。龍平はそんな事情もまだ全く知らずにいた。
年次総会が終わると、ただちに龍平の中央支部事務長としての仕事が始まる。田中は四ツ橋の事務所に、会員名簿や、預金通帳などを持って来た。これから六月の例会の準備である。いつも例会会場である上本町の府の教育会館の三十人程度入れる部屋を借りることから始まる。その規模なら夜間の借料は三万円であった。
先ずは例会に宗教の話をする講師を選ばなければならない。田中は「上の人と相談して」と言う。上の人とは、その役職も受けずに口ばかり出すお偉方のことである。
二、三人の大先輩に電話して、講師を決めると、次は上本町の教化部の中にある会の事務局に電話して、来月の例会の日時を連絡して、講師の先生に連絡してご出講をお願いする。
もしその講師の都合が悪ければ、作業は振出に戻ることになる。
次に案内状を作成する。
俊平が霊園開発の件で、丹南町や周辺の自治会の地区長に文書を出す機会が増え、その為に最近はワープロという機械を購入し、手書きでは無く、ワープロが印字する活字の文書を送るようになっていた。ワープロとは言っても、今のように作成した文章の全貌が見られるのではなく、今文字を作っているその一行だけしかモニターには映し出されない機械だ。
そんなワープロでも、龍平には支部の会員に案内状を発送するのはうってつけの機械だった。

龍平が作った案内状をチエックするのがまた上のお偉方の仕事だ。
文字の大きさとか、書体に迫力無いとか、いろんな文句を言ってくる。
六月になって例会が近づいて来た。
また上のお偉方が事務長の龍平に電話をしてくる。
「今月の例会は何名が来るのかな」と。
龍平はびっくりする。返答がいるなら往復葉書にすべきなのだ。だが往復葉書を出す予算はないし、そんな手間暇もかけられない。
「当日にならなければ分かりません」と答えると、先輩は大きな声を出して電話の向こうで怒鳴った。
「君は毎日何をしているんだ。支部の会員さんの全員に電話をするのだよ。出席なら良い。考えていると言ったら、是非来て下さいと、欠席だと言ったら、もう一度考え直してもらうのだ。要は最低三十名の出席が要るんだよ。会費が千円だろ。三十名来てやっと三万円だよ。そこから府の教育会館に部屋代を払うのだ。だから三十名切ったら、支部は赤字になるんだ。赤字になったら、それは事務長の責任なんだよ」
龍平はびっくり仰天だ。これでは仕事の合間を潰してやって行く軽いボランテイアなんかではない。まるで普通の責任のある仕事だった。
こんな仕事を毎月しながら、果たして自分の仕事がちゃんと出来るのだろうか。
そんなことに懸命になりながら、十数社ある借金の返済を忘れることなく出来るのだろうかと、龍平は頭を抱えた。

第九章 祈りの効用 その⑧に続く