第六章(誰もいなくなる)その14

 

(筆者が経営する羽曳野の霊園のバラ園を、モデルさんを入れて池田厚司氏が撮影)

会員が会員を集めるマルチ商法のベストライフ社向けの商品の生産が始まった頃には、俊平の助言で、龍平のアシスタントとして薬品業界でルートセールスをしていた中年男性がひとり採用されていた。
彼は龍平のアシスタントとして良く働くのだが、得意先の開拓はできない。彼がいてくれると龍平の仕事は楽にはなったが、労務費を増やしただけで、売上や工場の工賃収入を増やすには至らなかった。
昭和六十二年(一九八七年)は、龍平にとって珍しく平和な一年であった。
一セット十二万五千円仕切りのベストライフ社の羽毛布団セットの発注数は、初月の十セットから始まり、翌月は二十セット、その翌月は三十セット、そして秋になると五十セットから七十セットへと、順調に売上は拡大して行った。
現金売りの商売はそれだけでなく、商品を出荷したら直ぐ代金を振り込んでくれる会社が、他にも数社あったので、一千万円くらいの現金入金を毎月予定できるようになり、龍平の心に余裕が持てるようになる。今まで休みも取らずに働いていた龍平だったが、この年は珍しく日曜毎に家族で西国三十三所の寺回りをすることが出来たのだ。
日帰りでは行けそうにない熊野那智大社は、営業のアシスタントの男と運転を交替しながら、以前四十二号線での横転事故の時に世話になったことの礼を言うためもあって、南紀のすさみの釣り宿で一泊して、行ったこともあった。

同年五月に妻の智代が三十六歳となり、七月には龍平が四十歳となり、九月に小学校四年生の長女、雅代が十歳となり、十二月には幼稚園児の次女の美千代が四歳となった。
毎週日曜日に家族でドライブが出来る程、龍平たちには穏やかな一年でも、アメリカ国民にとっては決して穏やかな年ではなかった。
同年(一九八七年)十月十九日月曜日、アメリカのバブル経済が崩壊し、株式市場が大暴落して一日にして五千億ドルが紙屑となった。人はこの日をブラックマンデーと呼ぶ。
原因は一九八一年に就任したレーガン大統領による減税政策「レーガノミクス」によって、長く苦しんできた不況から見事に脱出しえたのだが、アメリカは反面巨大な貿易収支の赤字と財政赤字に苦しむことになった。八十五年には「純債務国」に転落。アメリカ経済の実態が危険水域に入ったにも関わらず、国民は強気と楽観論に支配され、株式投資に興じて来た結果がブラックマンデーだったのだ。
アメリカの金融機関はその後、生き残りをかけて、銀行を統合しながら、大量の人員整理(リストラ)を実行して行った。
一年後には日本の年号が、昭和から平成へと変わるのだが、その数年後、日本のバブル経済が弾けた後に起こる、日本の金融機関の合併とリストラの嵐を、昭和末期のアメリカの金融情勢がまるで予告していたかのようである。
その翌月、十一月二十九日には、地域紛争とテロとの戦いで明け暮れた平成の世を予告するかの様な事件が起こった。中東から韓国ソウルに向かって飛んでいた大韓航空機が、ビルマ上空で空中爆発を起こし、乗客乗員一一五名が帰らぬ人となったのだ。大韓航空爆破事件である。

十二月十五日には、韓国政府は同機の乗客で事件の八十時間後にバーレーン入管当局の取り調べを受けることになった蜂谷真由美こと金賢姫容疑者を韓国に移送し、前月の事件は北朝鮮の工作員、金賢姫とバーレーンでの取り調べ時に自殺した金勝一による爆弾テロによるものだったと発表した。この事件の後、金賢姫の証言から北朝鮮による日本人拉致の実態までが明らかになる。
アメリカの株式が大暴落する前のことだが、同年の日本の金融界の事情は少し違った。野須川寝具の和議債権者の中、処分ができない八幡工場や丹南町の山林に担保を付けて銀行は足繁く俊平の下に通い、一日も早い返済を迫っていた。俊平はなみはや銀行に頭を下げ、これら銀行の肩代わりを頼んだ。
龍平による工場稼働が順調に進まなかったら、門前払いだったのかもしれないが、なみはや銀行は、俊平の申し出の内、丹南町の山林に付いた担保分だけ肩代わりを引き受けた。
なにはや銀行が、ここに至って他行の肩代わりをしたのは、同行東京支店からの情報で関東に始まった不動産バブルが、次第に西日本にも波及することを、関西の地銀の中で、なみはや銀行が真っ先に予測していたからかもしれない。
関西でも暴力団が、新しくビルを建てたい不動産業者に頼まれ、関西の大都市に棲む住民を力尽くで追い出すという、「地上げ」と言われる無法な活動が目立ちだしたのも、この頃だ。

年が明け、昭和六十三年(一九八八年)となった。龍平のアシスタントを務めた男は、毎日俊平から叱咤されるのを嫌って昨年暮れには辞めてしまっていたが、俊平はまた一人、龍平と同じ歳の営業経験がある男を採用した。

春になると、ベストライフ社の発注数は遂に百に達し、それだけで月に一千万円以上の現金入金と、三百万円以上の加工賃収入が得られるようになった。
ある日、ベストライフ社のバイヤーを名乗る男が広島から龍平を訪ねて来る。ダンデイーな服装をしたイケメンの若い男性だった。
壺井から、うまいもの食わせて、美人ホステスが揃った店で、存分飲ませてやってくれと指示を受けていたので、龍平はその夜、大阪ミナミでその男と飲み明かした。
このバイヤーを見る限り、ベストライフ社は矢吹が言う通り、暴力団が作った会社ではなさそうに見える。と言うよりもマルチ販売にはお馴染みの、口から生まれた様に話上手な男だった。
彼が訪ねて来た目的は、ベストライフ社と壺井との間の決済条件の変更の、野須川寝具からの口利きを頼むことだった。変更できなければ、羽毛布団セットの取扱い比重が確実に下がるだろうと。
しかし龍平は「壷井さんは菊花組の幹部なのですから、そんなことは恐ろしくて申せませんよ」と断った。商品引き換えの現金払いの取引条件は、壷井ではなく、実は壷井に損をさせたくない龍平の堅い意志であることを、バイヤーは知らずにいた。
翌日は大阪のホテルで事業説明会があって、大阪の会員や素人投資家を集めて、このバイヤー自ら入会者を作るのだと話した。何度も見たマルチ販売の洗脳会なのだろう、と龍平は想像する。
ベストライフ社の圧力に屈せず、壺井は頑として決済条件を変えなかったが、それでも羽毛布団セットのベストライフ社の扱いは増え続け、八月に入ると遂に二百セットの注文がなされた。龍平は、遂にベストライフ社の終焉時期が来たと感じた。すぐに壷井に自分の直感を伝える。

昭和六十三年九月、ベストライフ社は突然自己破産を申請した。会員には六月くらいから資金繰が悪化して配当もできなかったようだ。
壺井自身も、最初に付き合いで買った一セットの羽毛布団は確かにタダになり、次に勧められて買った二セットもなんとかタダになったが、その次に勧められて買った四セットは、配当金が一銭も受け取れなかった。つまり壺井は二百四十万円で、ベストライフ社の商品を七セット買ったことになる。
この事件は、ベストライフ事件として、数日間新聞の三面記事を賑わせた。
何度も繰り返されるマルチ商法の被害者を同情をする人が次第に少なくなった。マルチ商法とは如何なる商法かを世間が知ることとなって、欲得尽くで参加した者の自業自得だと、冷たく突き放す人が増えたのだ。売掛金を回収し損ねた業者も、そんな商法と知って商品を供給したのだから自己責任だと、こちらも同情されなかった。
そうは言うものの、無数の被害者が出た以上、警察は動かなければならない。警察が四つ橋の事務所にもやって来て、龍平に商品について質問した。六十万円の価格が適正だったかの質問である。商品の品質検査は既に警察にて済んでいた。結果は品質表示通りで、何の問題も無かった。
龍平は商品毎に値段を明らかにして、六十万円の小売上代が、決してぼったくりではないことを説明した。
警察が来たのはこの一度きりで、それからは来なかった。龍平にすれば一件落着だが、龍平の営業アシスタントは、今が潮時とばかりに辞表を提出した。
この頃、八幡工場の工場長として、生産や出荷の指揮をとってきた若い男までが、会社に辞表を提出する事件が起こった。

辞めたい人間には、止める必要もないと、会長の俊平は、この男に会わなかったから、簡単に工場長の退職が決まってしまった。野須川寝具は、これで有能な人材をまた一人失うことになる。
野須川寝具の社内では、和議以降七年間も工場長をやってきた男の我が儘な退職事件だと簡単に片付けられたが、この工場長は、会長の俊平に無断で菊花組のヤクザから借金し、それを完済するまで隠し通してきた龍平、土田、池田たちの謂わば犠牲者だったかもしれない。
真相はこうである。龍平たち本社の管理要員の三名で、東京の壷井への売上を調整しながら計上していた。それは返済額と月に六パーセントという高金利を、売上から除外しなければならなかったからだ。
昨年の融資を受けた六月から、完済した今年の八月まで、十四ケ月、最終的には延べ三百万円の金利を払ったことになるだろう。龍平は、父親の俊平には借入を内緒にしてきた手前、同額を減額して売上を計上しなければならなかった。従って売上伝票も出荷伝票とは食い違う内容だったのだ。
一方、工場側は月を追って、二層立体の仕事が増え、手間で非効率な作業に追われることになったが、中でも最後の数量が最大値となった八月の生産は、それこそ死に物狂いで生産しなければならなかった。だから八月の月次決算は、大幅黒字になる筈だと工場長は予想していたのだ。
ところが、そろそろベストライフ終焉の時と直感した龍平によって、壷井には八月に借入残金全額を相殺してもらい、返済と金利見合いに支払いが相殺されることで、相違が出てくる売掛金を、一挙に八月で合わせてしまったことから、八月も収益はほぼゼロ決算になった。
「そんな馬鹿なことがあるか」と憤慨して、俊平会長に直談判したいと言い出した工場長に、それだけは思い留まらせるようと龍平は土田を八幡に走らせた。

龍平の指示をどう受け取ったのか、会長の俊平に内緒でしてきたことを、絶対に明るみに出してはならないと思い詰める土田は、工場に着くなり、自分から喧嘩をふっかけ、売り言葉に買い言葉の応酬の後、頃を見計らい、龍平副社長や自分を侮辱したからと、無理矢理辞表を書かせて一件落着とした。
「なんということをしてくれたのだ」と嘆く龍平に、土田は開き直った。
「今うちの会社に必要なものは龍平社長、あなただけです。最早俊平会長でもないと思います。あなたを会社に残す為なら、何が犠牲になっても、やむを得ないことです」
ところが翌月には、その土田が会社を辞めることになった。
指圧敷布団を作ることがなくなり、敷布団と言えば、普通の固綿敷布団ばかりの生産になった。
これにクレームを付けたのが俊平だ。生産や営業には口を挟まないと約束していた会長の俊平が、龍平では無く、何故か本社生産管理者の土田を呼んで「どうして特許商品である指圧敷布団を売らないのだ」とつい小言を言った。
土田も、ベストライフ社の仕事が無くなって、空いてしまった生産スペースを、どう埋めようかとイライラしていた時であるから、ついかっとなって「誰からも注文されないのですから、仕方ないでしょ」と言い返す。それから二人の激しい言い争いになって、最後には俊平に「土田! お前は馘首(くび)だ!」と言わせてしまった。
銀行業務、毛布の販売、訪販事業しか知らない龍平に、和議の後、京都山本から「コタツ布団の約定残を、一枚残らず生産して納めて来い」と言われた時に、一緒に工場で徹夜して、加工指図書の書き方、読み方を、その日初めて言葉を交わした龍平に親切丁寧に教えてくれた男である。

以来、土田はカシオペア事業の生産担当常務を受けた龍平の最高の右腕だった。
龍平は土田だけは辞めさせたくなかった。しかし土田は頑として辞意を覆さない。
そして心がまるで解放された様に清々しく別れの言葉を述べる。
「龍平社長にはいろいろ勉強させていただきました。私では無く、社長が生産を担当された時代の、カシオペアの企画商品の柄選びは完璧でした。また社長のカタログ作りも最高でした。会長はその価値を認めておられませんが、社長のセンスが玄人にも受け入れられるのは、今の小売業界への卸になって、はっきりと証明されました。しかし社長のいけないところは、創業者である会長を口説こうとせず、内緒で独断専行されるやり方です。社員は社長を支持しています。しかし創業者を裏切るのは、耐えがたいことなのです。このまま行けば犠牲になる社員が後を絶ちません。私も社長にお付き合いするのは、少し疲れてしまいました。だからいくらお止めになろうが、従う気は無くなったのです」

これで龍平の下にいる幹部社員は経理課の池田課長と、工場長に昇格させた製綿課長の関田の二人だけになってしまった。
しかし龍平には、土田を考え直させる為に話し合う心の余裕さえ無かった。月商二千数百万円にも膨れあがったベストライフ社の仕事の後を埋める仕事が直ぐには見つからず、十一月の運転資金の不足額は、一千七百万円にもなると予想されていたからだ。
昭和六十三年(一九八八年)十一月、野須川龍平は絶対絶命だった。

第七章 終わりなき闇夜 その① に続く