第一章(家族、夫婦の絆)その9

(昭和三十五年八月、中学一年生になった筆者が父に連れられ、家族で日本アルプスの槍ヶ岳に登った時の写真だ)

昭和二十六年に野須川家に三番目の子が生まれた。龍平には二人目の妹だ。
翌二十七年、龍平は平野の商店街にあった民営幼稚園の園児となった。
その頃野須川俊平は自宅を商品倉庫に使いながら、都心に事務所を構えるようになって、南海電車での通勤生活が始まる。大阪の繊維産業の復興が進む中、俊平の繊維原料の商いは順調に伸びて行った。
そんなある日、平野の自宅は改造され、居間兼応接間が造られ、テレビジョンが設置される。往時、大阪の平野でテレビがある家は、ほかに何軒あっただろうか。テレビ受像機は、往時のサラリーマンなら二年以上の給与を出さないと買えない価格なのだ。
ゴールデンタイムの、力道山が出るプロレスの実況の時は、野須川家の応接間は、近所の仕事帰りの大人たちで溢れかえった。
昭和二十八年二月、俊平は再び事業を法人化して、後の野須川寝具産業の前身である、資本金二千八百万円の株式会社野須川商店を設立した。
翌二十九年四月、龍平は隣町にある市立小学校に通うにようになる。
その年の夏に野須川家は、生駒トンネルを越えた奈良市の西の山間部で、民営鉄道会社が住宅開発を始めた地区に家を建て、そこに引越したのだ。


野須川家の新居は、新設された駅から南に歩いて五分の距離にあったが、周囲を見れば、どんぐりの木が繁茂し、松の木が点在する林が広がり、他に家は数件しか見えなかった。
毎日山を削るブルドーザーが行き来して、住宅開発が進み、数年の内に大きな町になって行く。そうして出来上がったのが現在の奈良市の西の拠点、大阪のベッドタウン、奈良市西郊地区と言われる、学園前駅を中心とした学園(北、南)、学園大和町、鶴舞、百楽園、登美ヶ丘の町である。
龍平は二学期から学園前駅近くの私立小学校に転校した。
俊平の母は奈良に引越するときまで同居だったが、半年後に本人の希望で大阪にいる実の娘、俊平の姉と一緒に暮らすようになる。彼女の夫が従業員になったのもこの頃だ。

自宅を倉庫代わりに使った平野から、奈良に引越すまで、長く仕事と家庭生活が混在して来たが、奈良に棲むようになって、俊平は家庭生活を仕事から完全に切り離し、これまで以上に大切にするようになった。俊平は自宅の近くに出来たゴルフ場の会員となって、ゴルフを始めるようになる。事業の進展に役立つ人脈が出来たのも、ゴルフの付き合いからという例も幾つかあった。
しかし日曜の夜は、必ず家族一緒に夕食をとらせた。その習慣を、まるで憲法のように、家族にも、自分にも、俊平は厳格に課したのである。たとえお客様と土曜から泊まりでゴルフに行こうが、日曜の夕刻にはきちんと帰宅していたから、子供たちが、部活だの、塾だのと、言い訳を言っても、俊平は聞く耳を一切持たなかった。


これも家族の絆を強めるためだったのか、俊平がもうひとつ一緒の行動を家族に課したのは、夏休みのアルプス登山である。標高三千メートルに迫る日本アルプスの登山道や縦走路に並ぶ山小屋に、二泊乃至三泊して登山や連山の縦走を楽しむ軽装の山歩きであった。
龍平は勿論、二人の妹たちもそのお蔭ですっかり登山好きになる。龍平が小学校五年生になった夏休みからその習慣は始まり、太平洋商事の社員になるまで続いた。

野須川家が奈良の学園前に引越してから 十四年の歳月が流れ、時は昭和四十三年の春を迎える。
その間に俊平は大阪市鶴見区に二千坪の敷地に工場を建て、繊維の原料商から寝具の山本チエーンの姉妹会社、京都山本と業務提携を結び、同社向けの洋ふとん(縫製された側生地の中にポリエステル綿を詰め、その上から大型専用ミシンを走らせ、大量生産・廉価販売を狙う新式の掛け布団)の生産に仕事の重点を置くようなっていた。
一方息子の龍平は、奈良市立の中学校を出た後、奈良県随一の県立高校に進み、現役で兵庫県の国立大学の経営学部に進学した。すっかり山好きになって、高校でもそうだったが、大学でも、ザックにテントや生活用品を詰めて日本の高山に挑む、ワンダーフォーゲル部での活動を楽しむ龍平だった。
いま龍平は大学三年生(龍平が進学した大学独特の呼称である)になろうとしている。教養課程は半年前に修了し、経営学を専攻する専門課程に進級していた。
青春を謳歌する年代になった龍平の心の中には、いま二人の女性が大きく存在している。
龍平にはこの二人の女性から、一人を選ばなければならないと真剣に思案し始める春休みだった。

(第一章 家族、夫婦の絆⑩に続く)