第二章(個別訪問セールス)その3

(筆者の父が昭和三十六年から寝具事業部の本拠地として進出した大阪市鶴見区茨田横堤の現在の風景)

「スーパー・ヤスカワ」は昭和三十六年の年初にオープンする。初月の売上は予想を超えて二千五百万円を計上した。利益も大きく出る筈だった。しかし月末に実際に商品の棚卸(在庫金額を検証)をしてみると数十万の赤字だ。翌月も、その翌月も赤字だった。俊平はこの原因について後に、顧客の万引きもあったが、それよりも寄せ集めの従業員に商品を横領された被害の方が大きかったと述懐している。
本当に商品ロスだけが原因なのか、それとも素人経営で、ビジネスモデル自体に、例えば益率などに問題があったのではないか、それは今となっては分からない。
僅か一年でスーパーの損失の累計が五百万円にもなり、田岡はギブアップして会社を去った。それからは俊平が責任者を兼務したが、一ヶ月として黒字には出来ない。平成三十八年秋、俊平は「スーパー・ヤスカワ」の閉鎖を決意するしかなくなった。
スーパー事業部が廃止となり、今後営業しないと決まれば、その事業部が抱える設備(店舗、電気水道ガス設備、冷蔵庫、什器備品)は総て資産には計上できなくなる。また実際に撤去費用が掛かり、元の状態に戻すにも費用もかかる。野須川商店のスーパー事業部は、約一千万円の経常損失(通常の営業収支のマイナス)に加え、七千万円の閉店損失を計上することになった。
スーパー開店の一年後に入社した森本は、同年八月の決算終了と共に完全に寝具事業部を任されたが、彼はその後一度も月次決算をすることなく、翌年八月の年度末決算を迎えた。


洋布団の出荷量は確実に伸びていたから、数千万円の純利益が出るはずが、これも実際に棚卸をして在庫金額を把握すると、黒字どころか、数千万円の赤字となったのだ。調査の結果、商品を千枚単位で出荷しながら、取引先の更に先の地方の寝具店にまで商品を直送した時に、仕切り書(売上票)を取引先に発行するのを失念したケースが無数にあったようで、今となってはその請求先も分からないという体たらくであった。
この寝具事業部の損失原因も、俊平は管理の怠慢と商品ロスだったと後に述懐しているが、それもあったにせよ、商事会社(商業簿記による決算)の経験しか無かった森本に、製造会社の原価(工業簿記の原価)概念がどれだけあったのかは疑問であって、原価に見合う適正な価格で販売されていたのかどうかが寧ろ問題ではなかったか。
森本は解雇されたが、スーパーの閉店損失に加え、今や本業の儲け頭である筈の寝具事業も赤字となっては、野須川商店は、当面の必要運転資金や、銀行の借入金返済に加え、寝具事業部発足が契機となって振り出されるようになった四ヶ月サイトの支払手形を全額決済するには、一億八千万円(現在の十数億円)の資金不足に陥ったことが分かった。
原料部門の取引銀行であった都市銀行は、危険を察して門前払いだったし、取引が始めたばかりの寝具事業部に融資していた上方相互銀行城東支店に相談しても、気の毒だが、不動産担保には余裕もないし、金額が大き過ぎてどうにもならないと丁重に支援を断られた。野須川俊平は万事窮すである。
そこで俊平は、思案に思案を重ねた結果、包み隠さず事情を説明し、事業後援者の扶桑(ふそう)紡績に一億八千万円(今の十数億円)の支援を頼む以外、方法は無いと判断した。

扶桑紡績の社員たちは、取引企業に資金融資など話にならんと門前払いだ。
それから毎日、俊平は夜討ち朝駆けで、扶桑紡績を訪問し続けた。俊平はいくら面談を拒絶されても諦める訳には行かない。
百二十人の従業員の生活が懸かっている。俊平は息子龍平にも思いを馳せた。龍平は中学校を主席で卒業し、奈良県では一番の受験高校に入学し、志望校を経営学部がある兵庫県の国立大学に定めて頑張っていた。自分の跡継ぎになろうとする可愛い龍平の為にも、ここで会社を潰す訳には行かないではないか。そんな思いで俊平は大阪本町にある扶桑紡績の本社に毎日通い続けたのだ。
扶桑紡績に通いながら、俊平は京町堀に本社ビルを建ててからの自分を反省していた。豪勢な社長室にふんぞり返り、運転手を付けてアメリカ車を乗り回し、夜は北新地か祇園通い、まるで上場会社の社長の様に優雅に振る舞っていた。
また必要以上に多数の若い女子社員を雇い、土曜の午後には会社の経費持ちで先生を呼んで、花嫁修業だからと彼女たちを強制的にお茶やお花を習わせたりもしていた。
「なんとあほな社長なのだ、その付けがこの結果だ」と俊平は頭を抱えた。
本社ビルは売って、これまでの生活は改めるにせよ、先ずは扶桑紡績を口説き落とさねばならない。
そうこうする内に昭和三十八年の暮れがやって来た。
扶桑紡績は依然として会おうとはしないから、仕方なく俊平は年末の銀行返済と寝具事業の仕入先に降り出した手形決済の資金集めにかかった。従業員に払えるのは本給だけ、残業手当も賞与も待ってもらうことになる。加えて扶桑紡績や松陰商事など、現金で支払う先には暫く待ってもらうしかなかった。

それでもこのまま行くなら、翌月の一月末で恐らく倒産だ。
俊平は諦めずに年明けから再び毎日扶桑紡績に通った。
俊平の熱意が天に通じたか、扶桑紡績の浜岡常務から、融資の話に応じるからと呼び出しがあった。絶体絶命の月末迄後数日だ。
「野須川さん、当社もこんな前代未聞の融資をするのだから、幾つか条件があるのは承知されたい」
「それは分かっています、どうぞ何でも仰って下さい」
「先ずは以後二年間は返済を猶予するとして、その後の三年間で全額完済頂きたい」
「ありがとうございます。私の命に代えてその約定、守らせていただきます」
「加えて、完済の暁にだ、御社の繰越損失は綺麗に消しておいてほしいのだ。これは当社のメンツだと思ってくれますか。それができないのなら、この融資はしたくないのです」
「分かりました。それも命に代えまして必ずや実行いたします」
「勿論のことでお分かりかと思うが、あなたの私財の総てに担保を付けさせていただきます」
「それは当然のことです」
「それから京町堀のビルは売りに出して下さい。原料商に携わる従業員は整理して、あなたは横堤の工場に入って、寝具製造業に専念して下さい」
「もとよりそのつもりです。あのビルは既に仕入れ先の松陰商事に購入を依頼してあります」
「それからこれは言いにくいのだが、出向役員を一人受けてください」
「すみません。それだけはお断りします」

「しかしね、これは決まりだから」
「私に会社再建の責任を負わせられるのなら、私に全権を頂かないとそれは受けられません」
「この融資の条件でも断るの?」
「お断りします。だったら私は引かせていただきます。会社の再建はそっちでやってください」
昭和三十九年一月三十一日金曜日、株式会社野須川商店は扶桑紡績から一億八千万円の融資を受け、絶体絶命の倒産を免れた。