第一章(家族、夫婦の絆)その5

(写真は筆者の父だが、頭が丸坊主であるから、船場の商社を辞める前後、召集があった二十歳頃の姿だろう)

平三郎誕生の翌年、時代は大きく転換し明治の世となった。西欧の列強に負けじと国民挙げての近代化が始まる。
平三郎が嫁をもらい、分家の野須川家当主となるのは、帝国憲法が発布され、総選挙を経て、帝国議会が開設された一八九○年(明治二十三年)頃のことだ。
平三郎は勤勉で、商才に長け、持てる田畑を増やし、着物反物の商売も、本家が拠点を置く京都を避け、九州の門司に店を構えた。為に家を空けることが多くなる。
田畑は総て小作人に貸し出されたが、家長が留守する間の、子育て、邸内の使用人の指図、小作人の管理などの仕事は、嫁には相当重労働だったに違いない。その為か哀れにも幼い子供たちを残し、若くして亡くなった。最初の嫁が産んだ女児の数は不明だが、男児は二名である。
日清・日露の戦いを勝ち進んだ明治の末期には、平三郎は河瀬村犬方に敷地千五百坪の邸宅を構えるまでに身代を富ませていた。留守宅を守る嫁が絶対に必要だからと、平三郎はすぐに二番目の嫁をもらっている。しかしその嫁も子供を数人産んで亡くなった。内男児は三名だ。
デモクラシーを叫ばれる大正の世となり、サライエボ事件から始まった第一次世界大戦が終わった頃、平三郎は三番目の妻を迎えた。


既に五十代になった平三郎の三番目の嫁として、行き遅れの三十代の女が選ばれたが、平三郎よりは二十も若い女性である。
ただ彼女は幸運だった。妻を酷使して早死にさせるのに懲りたのか、それとも仕事に疲れを感じ、家庭生活に癒やしを求める歳になったからか、家業は長男、次男に任せ、平三郎は隠居してずっと邸内にいることになったからだ。
門司の店には長男、次男が出張することになった。三番目の妻は女児一人、男児一人を産んだ。五十六歳になった平三郎の六男として、関東大震災の三ヶ月前、大正十二年(一九二三年)六月に生まれたのが野須川俊平である。
だが野須川平三郎にはこの日は目出度くなかった。同じ日に野須川家に破産宣告が下ったからだ。
長男次男に任せていた門司店が突然支払不能となり、この経営者二人は親にも説明せず、店を放ったらかして家族共々夜逃げしてしまったのだ。債権者たちは一斉に滋賀県の親元に駆けつけた。
現代では、親が子の連帯保証さえしなければ、このようなことは起こらないだろう。
後日、俊平は大きくなった息子の龍平に、門司で勤勉に働いていた筈の兄たちが、実家に戻ると言っては京都に立ち寄り、芸者遊びをしていたので、それで家業が倒産したのだと、しかも彼らはその芸者と大連に逃げたのだと、家業倒産の事情を説明していた。芸者遊びも倒産原因のひとつかもしれないが、要は俊平の兄たちには平三郎と同じ商才が無かったのだ。
父の俊平がそんな話にしたのは、よほど不遇な生い立ちに追い込んだ兄たちが憎かったのだろうと龍平は思った。男に尽くすのは商売である芸者が、破産した男について外国に逃げるなどは到底考えられないからだ。


屋敷は三分の二の千坪が売却され、平三郎の動産も無くなり、田畑も切り売りされて行った。それでも完済にならず、家族共々行方知れずのままの息子たちが残した借金の分割弁済は、それから何年も野須川家を苦しめたのだ。
本来なら大金持ちのぼんぼんとして、蝶よ花よと育てられたであろう俊平は、生まれた時から破産者の息子として村人たちから蔑まれながら育ったのである。
俊平が商業学校に進学するのも大変なことだった。平三郎は親戚中に頭を下げ、借金を頼み歩いたが、誰からも借りられなかったようだ。結局俊平は幸運にも奨学金を貸与され、近江八幡の近江商業学校に進学し、昭和十六年三月に卒業し、大阪船場の繊維商社、船栄商店に営業マンとして入社した。
船栄商店では俊平は、その負けず嫌いの性格を爆発させる。地方を回って受注をとってくる営業成績は、毎月同僚の二倍の売上であったと伝える。だからボーナスも同僚の二倍だ。
さて同僚たちが寮に帰って話し合うのは、会社の数百人の女性社員の品評だった。誰が一番美人で、誰が良い嫁になるだろうか、などと話す他愛の無い話である。
一番人気は、国江という女性だった。彼女を射止められるのは、とハンサムな男性社員の名が幾つか上がったが、俊平の名は出てこない。
ようし、それならこの俺が彼女の心を射止めるぞ、と俊平は明くる日から行動を開始する。国江を通勤途上の各所で待ち伏せて、交際を申し込もうとしたのだ。
だが、彼女は彼の求愛を聞く前にいつも逃げ出していた。
そんなある日、俊平の隣の席の女性から、私の親友の国江をしつこくつきまとうのは止めなさいと言われてしまう。俊平は万事窮すであった。


(第一章 家族、夫婦の絆⑥に続く)