第五章(和議倒産) その8 

(筆者が経営する第二霊園、美原東ロイヤルメモリアルパークのバラ園)

会議の出席者は固唾を呑んで俊平の言に耳を傾ける。
「竹中が言うには、ミツバチ・マーヤの幹部の多くが、保守的で進歩を嫌う同社の体質に嫌気をさして辞めたがっていると言うのだよ。ここに竹中から貰った、二年前の同社の全国組織図がある。何と、ここに名を連ねる幹部たちの殆ど全員をカシオペアに入れて見せると竹中は豪語する。勿論、竹中の話を鵜呑みにする訳ではない。だが、この組織図にある北海道の責任者であった廣川君は、竹中に引き抜かれ、今名古屋の西山社長に預けられているのだ。今の中村区の中京本部は七月末で閉鎖になるが、八月には廣川君がセールスを引き継ぎ、別の場所で新たな名古屋店をスタートさせることになっている。その前に竹中は、来月に新たに引き抜くセールスで神戸店を立ち上げ、六月には大阪市内に新たな店を立ち上げる計画なのだ」
「竹中というのは、前週の月曜の朝、会長室に来ていたあの男ですか」と井川。
「ああ、そうだ」
「そんな事情とも知らず、彼をどこの極道かと思いましたよ。会長は変な輩(やから)と付き合い出したなと。彼の本性は人買いビジネスなのでしょ。会長、その竹中を社員にするのは止めて下さいよ」
「井川君、彼の目的が何であれ、こちらは彼を利用するしかないのだ。彼は利用するが、会社に入れるつもりはない」と俊平。
「幹部全員を引き抜かれたら、ミツバチ・マーヤはどうなるのですか」と井川。

「さあ、それは知らない。言いたかったのは、今期の決算が終了すると同時に、新しいカシオペア事業部の体制が出来るのだが、九月に始まる来期は、訪販事業の飛躍の機会が待っていることだ」
会議の出席者は、流石に会長だと、口々に褒め称えた。だが龍平は、父親の俊平の頭の中は、カシオペア事業の立て直しの件で一杯なのだと、確かにそこには希望の光が見え、期待感も膨らんだが、寝装事業部のことや、毛布事業部のことは、父親の頭の中にまるで無いことを知って嘆くのだった。しかし龍平は、父親の七転び八起きの不屈の根性には脱帽だった。

それから五か月の月日が流れ、野須川寝具産業の昭和五十五年八月期の決算が終了した。北海道を除く全販社が解散し、千葉店、浜松町店、横浜店、名古屋店、大阪駅前店、神戸店、福岡店の七店が、本社直轄の直営店となった。七店の内、名古屋以西の四店が、名古屋の廣川部長の傘下に入ることになった。七店の売上見通しは、合わせても一億二千万円程度しかなく、しかも西高東低であった。
旧販社の社長や役員たちは全員解任されたが、ひとり東京の田野倉だけは、東京三店の営業を見る責任者と、形だけではあるが、東京支店長を兼務して残ることになった。
そして旧販社への債権総額は、なんとかぎりぎり二十億円以内に収まり、香川常務は上司の山村頭取との約束を果たし、面目を保った。
九月一日、帝都紡績からの転職者の西村が、忠岡工場長の後に、社長を勤めた中京販社の解散を受け、中京販社の債務が、資本金の一千万円と、手形残高一千万円を合わせて、二千万円も残ったことを恥じて、野須川寝具本社に詫びに来たのだ。

しかし俊平も、他の役員たちも、誰も西村を咎めなかった。それはそうである。他の各社は何億円という負債を残して解散に至ったのだ。しかも責任者の誰からも、一言のコメントすら無かったのである。それに比べれば、西村の中京販社は最高最良の経営であった。
淀屋橋本社を去る西村を、居合わせた役員、社員の全員が拍手で見送る。

新年度の九月がスタートすると、龍平はカシオペア統括事業部の人事を触らねばならない。以前の本社の統轄事業部のスタッフである近藤チームが、地方の販社に出張している留守中に、龍平は自分が逆境時代に世話になった、関西販社の経理・総務のスタッフから人選して、数名を本社の統轄事業部で引き取っていた。田岡社長の秘書だった女性もそこに入っている。また南関東からも、大卒の野須川寝具からの出向者を優先的に引き取る約束をしていた。近藤チームが大阪に戻って来た今となっては、半数を解雇しなければならない。
香川常務に相談したが、龍平がよくよく考えて判断すれば良いと、誰を解雇しようが、その人事案が香川自身の意思なのだと俊平会長に伝えようと言ってくれた。
そこで龍平は、嘗て事実を故意に歪めてレポートし、自分を貶(おとし)めた近藤チームの全員を解雇することにする。情実人事、報復人事だと誹(そし)りを受けるのは覚悟の上だ。
俊平からも有能な近藤だけは残せ、と言って来るが、龍平は断固考えを変える気はなかった。
思わぬ不意打ちを食らった近藤は、解雇者を選定したのが龍平だと気づくと、龍平のところにやって来て、職場を去る挨拶の代わりに捨て台詞を吐くのだった。

「この半年間、さんざん辛い仕事をさせておいて、用が済めば、初めから儂らを斬り捨てるつもりだったのだろ。なんて腹黒い奴だ。親の七光りで入社したお前なんか、役員と、上司と思ったことなど、一度もないさ。これでオサラバだから言っとくが、お前たち親子は、いつの日か地獄に落ちるに違いない。全身全霊で会社の発展に尽くそうとしたのに、無理やり辞めさせられた百名以上の地方の販社の事務官たちの恨みの念が、やがてお前たち親子の悪運を消し去る恐ろしい呪いとなるだろうよ」
龍平は一言も返さず、黙って近藤たちを見送った。

十月になると、竹中は俊平に約束していた通り、ミツバチ・マーヤの相模原店の大部隊を率いていた谷川本部長以下、関東地区に勤めていた四十名余りの精鋭を引き抜き、カシオペア・ニュー渋谷店をスタートさせた。
直営店は一括してカシオペア販売店と言うようになったが、これで一気に八千万円の月商のアップとなる。俊平は上機嫌だった。
だが精鋭部隊をごっそり引き抜かれた筈のミツバチ・マーヤ側は、何の動揺も見られず、何事も無かった様に営業を続けている。
ニュー渋谷店は好成績を上げてくれたが、野須川寝具の幹部たちは、ミツバチ・マーヤ側の静けさを返って不気味に感じていた。
そんな中、船場の見本市会場を使って、野須川寝具の新製品の発表会が大々的に行われ、業界の人、マスコミ、銀行、興信所などが集まり、カシオペア事業の躓(つまず)きで、一時は信用不安説の流れた

野須川寝具だったが、二十億の凍結資産は作ったけれど、それを超える不動産の含み利益で支援をためらう銀行もなく、訪販事業の無駄な固定費をごっそりと減らしたお蔭で、どうやらそんな先行き不安の心配も無く、商品開発力を見ても、逆に先が楽しみになったと会場の見物人たちは囁きあった。

昭和五十五年(一九八○年)もかくして無事に終わる。年末年始は、俊平にとって、気の休まる静かな休みになる筈だった。
十二月三十一日水曜日の午後、奈良市あやめ池の自宅で庭いじりをしていた俊平を、寝装事業部の責任者、井川専務が改まったスーツ姿でアポも取らずに訪ねて来る。
井川は突然胸ポケットから自分の辞表を取り出し、俊平に手渡すと、ため息交じりに語り出した。
「これを会長に預けます。いつでも私を解雇して下さい。昨年は京都山本から利益を借り続けました。五千万円にはなっているでしょう。来年はそれを京都山本に返して、正常に決算するなら、今年より一億円、寝装の付加価値(粗利益)はなくなります」
「そうか、その一億円は、儂がなんとかするから、君は心配せず、仕事を続けるのだ。だからこの辞表は君に返却する」
「ありがとうございます。ああ、どうしようか、そんなに会長に言ってもらうと、言うまいと思っていた坂本専務の粉飾のことを言いたくなりました」
「毛布事業部の粉飾だって、それはいくらあるのだ、一億か、三億か」
「そんな少ない金額ではなさそうです。日章帝紡合繊の毛布課と商社がつるんでやった粉飾ですから、かなり巨額なものかと」
「帝紡は知っているのか。そうか、知らないんだな」
「帝紡が知ったら、即時当社の毛布の生産は取りやめ、当社は一挙に会社更生法か、破産に突き進むでしょうね。会長覚悟して下さい」

 

第五章 和議倒産 その⑨に続く