第六章(誰もいなくなる) その1

(訪販事業部の東京本部があった現在の新宿駅西口。往時の本部があったビルは今は既にない)

昭和の時代、債務支払に窮した企業が、代表者の経営権を保持したまま、一旦支払を停止し、その後の再建を図るために、裁判所に申請する「和議法」は今はない。
現在はそれに代わって「民事再生法」があるのだが、銀行や仕入れ先等の債権(商品やサービス代金の請求権、貸金の返済請求権の総称)を、抵当権(担保)が付いたものと、そうでないものとに分ける考え方は今も変わってはいない。
和議法の下では、前者の債権を債務者の支払能力がどうであれ、カットはされないので別徐権、そして抵当物件を有しない後者の債権を一般債権あるいは和議債権と呼んだ。
和議債権は担保をとらずに、信用でお金や物品・サービスを提供して発生した請求権だから、債権者がそのリスク総てを負う。
裁判所は申請企業(債務者)に管財人を送り、総ての資産を今即売却したらいくらになるかの基準で簿価を洗い直し、非常貸借対照表を作成する。それによって債務をいくら迄減らせば、換金資産とバランスがとれるのかを算出する。

算出された債務支払可能額から、先ずは抵当権を有する別除権が百パーセント確保され、それを差し引いた金額が、支払い可能な和議債権となる訳で、野須川寝具の場合、倒産時の負債総額は六十億円、それから銀行によって定期預金等が相殺された後の負債額が約五十億円であり、その内の抵当権が付いた別徐権は約二十億、和議債権は約三十億だったが、即換金したらの査定基準で総資産を見直せば、二十六億円にしかならず、為に別徐権二十億円を確保した後に支払い可能な和議債務は六億円、つまり二割しかないことになる。従って、同社の和議債務は八割カットだと、裁判所から託された管財人は決定した。
野須川寝具に裁判所が弁済を命じたのは、カット後の和議債務六億円と別除権の内の十億円だった。つまり別徐権の内の十億円は、担保物権を処分し、弁済せよという命令だ。処分が予定されずに残る資産は、営業基盤である八幡工場や、敷金が担保に入った本社事務所と販売店だけである。
さて問題は、カットされた後の和議債務を十年間で分割払いするのは良いとして、それに重ねて別除権(担保付き債務)の弁済までが強制されることである。
野須川寝具の場合、債権者への支払義務額は別徐権と和議債務を合わせて十六億円であり、平均値で言うなら、一億六千万円を毎年返済しなければならない。裁判所が決定した支払計画では、最初の二年は一億円、それから次第に増えて行き、最後には年に二億円も払うことになっていた。
こんなに債権者に返済して、どれだけの申請企業が再建することが出来るだろう。
和議法の実態とは、倒産企業を再建させる為の法律というよりも、どちらかと言うと債権者の債権回収に重きを置いていた。だから民事再生法が代わって誕生したのかもしれない。

龍平は嘗て上場までを夢に見た会社が、どうしてこんなことになったのか、そればかり考えていた。
申請前日の八月三十日日曜日の朝九時、龍平と香川常務と五名くらいの部門長が密かに淀屋橋本社の二階の財務部に出勤し、三月に最後まで完成させずに途中で投げ出した部門別の和議申請書類が入ったダンボールの箱を取り出し、これまでの五年間の(月別売上・粗利・経費・利益)実績、当該部門の人員とそれぞれの役割、なぜ和議申請に至ったか、今後五年間の営業(売上・粗利・経費・利益)計画を記載した書類作成に掛かった。毛布事業部と書かれたダンボール箱は開けられることがなかった。
作業の早い部門は夕方に終わる。なみはや銀行からの出向者である香川は、そこで後を龍平に任せて一人帰宅した。部門長一人では書類の作れない部門もあって、深夜になっても出来ずにいたが、全員が完成するまで帰宅しない決意で、早く終わった部門長は、作業の遅れる部門の手伝いに入った。
時間は経過して行く。間に合わなければ、自分の所為で会社が破産する。そんなことはあってはならないと必死になって書類作成に取り組んだ。誰一人眠いなどとは思わなかった。
全部門の申請書類が完成したのは三十一日の朝六時。一時間後には、大阪地裁に行く俊平会長や原口弁護士が書類を取りにやって来る。龍平たちは例え一時間でもと、事務所の床に新聞紙や包装紙を敷き、その上に横になって仮眠した。その時、龍平は思った。これらの部門長たちが、普段からこのくらい真剣な気持ちで仕事をしていたら、こんな日を迎えることは無かったのかもしれないと。

昼前に大阪地裁から戻った俊平は、東京の有働や名古屋の廣川に電話で、今日毛布部門の業績不調によって債務超過となり、和議申請に至ったことを報告した。
「会長、心配には及ばない、そんなことは気にもせず、これまで通りやって行くから」と二人とも同じ

ようなことを言って俊平を慰めるのだった。
「ただし、五日の給与払いはきちんとお願いします、でないとセールスは散りますよ」と俊平は二人に念をおされた。野須川寝具は元々販売店も含めて、二十日締めの二十五日に給与を払い、翌月五日にセールスの歩合給だけを払っていたのだが、途中東京の有働部長の発案で、販売店は給与も含めて翌月五日一括払いで良いと変更されたのだ。
さて、九月一日、大阪地裁から委託された管財人が着任する。同時に京都山本が、寝具の山本ブランドに傷がつくからと倒産企業との取引はお断りと宣告して来た。相手の言うのが尤もで、これは如何ともし難い。
販社を廃止し、直営店にした昨年九月から、販売店の信販売上の代金は、翌月五日に本社一括で受け取り、本給・歩合給一括支払となってからは、同日にその資金を使って販売店の従業員給与を本社から一括送金していたのだ。この信販会社、中部日本信販から、倒産されたなら売上代金の送金は暫く様子を見たいと言って来る。
それでは九月五日に販売店の給与が払えなくなる。俊平は真っ青になった。
翌二日、なみはや銀行の山村頭取の親書を携え、俊平と香川の二人は、名古屋に本店を置く中部日本銀行本店を訪ね、子会社の中部日本信販に約定通り、支払をさせるよう嘆願した。
五日、信販から八月二十日締めの、一ヶ月分の一億五千万円の入金がなされ、販売店の給与払いは予定通り支払われた。
十日には、債権者を市内の集会施設に集め、債権者説明会が開催される。龍平は怒号の中の司会進行役を務めた。
この時、俊平たちは管財人の指示に従い、和議債務の配当率は三割の予定だと話している。

管財人は、野須川寝具の再建策、債務弁済計画を作成し、翌年三月の債権者会議の予定日を決定して、一ヶ月後に退任した。
管財人が赴任中に決定し、裁判所からの命令として指示したことは次の五箇条である。

一、野須川寝具は今後一切手形を振り出さず、また手形で商品を売っても、その手形を金融機関で割引には回さない。
二、上記に従い、手形取引が商慣習の業界各企業との取引を中止する。よってカシオペア事業部、その製造部門の重寝具製造部以外の部門は総て廃止し、其の従業員を解雇する。
三、債務五十億円の内、別徐権は二十億円、和議債務は三十億円だが、和議債務は八割カットし、六億円を債権者に配当する。
四、今後はカシオペア販売店の営業に専念し、年に六千万円以上、十年間で六億円以上の利益確保を目標にする。
五、速やかに守口倉庫、美原町山林、大分県山林等を処分し、別除権者に配当する十億円を加え、五十八年三月から十年間、毎年三月末毎に計十六億円の支払を誠実に履行する。

この決定に従い、野須川寝具の寝装品の製造や販売を担当してきた従業員は、全員九月二十日で解雇されることになった。
龍平は本社勤務ではあるが、八幡工場の重寝具製造部門の長となり、俊平から製造担当常務取締役に任命される。名古屋の廣川は、以後カシオペア西日本統括本部長と呼ぶことになった。東京の有働健一は、新たに出店した大和店と、新横浜店、千葉店を統括する東日本統括本部長を勤めながら、野須川寝具の営業担当常務取締役に就任する。


野須川寝具カシオペア事業は順調に展開し、東京では吉祥寺店を新たに出店し、本部を別に新宿西口に構えるようになった。
カシオペア事業は月商二億円を確保しながら順調に利益を出して行く。
昭和五十七年三月、債権者会議が開かれ、裁判所が作成した同社の和議支払十年計画が債権者に承諾され、ここに目出度く野須川寝具の和議が成立する。
昭和五十八年三月、昭和五十九年三月、昭和六十年三月と和議支払は、約定通り支払われて行った。
だがその間に処分された担保物権は守口倉庫だけだった。
後の美原町と大分の山林は総て開発調整区域に入っていて、資産価値もなく、思惑で購入する者など現れようもない。
そして昭和六十年は、寝具訪販が曲がり角に差し掛かる年で、西日本も東日本も売上が大幅に低下して行った。
販売店も製造部門も赤字に転落し、巨額の資金不足となり、営業拠点のテナントの解約ラッシュとなる。
昭和六十一年の年が明け、三ヶ月後に迫る今年の和議支払は一体どうするのだと俊平も龍平も不安に陥っていた。
そんな時に、東京から突然の絶句する悲報がもたらされる。
既に廣川が退社し、全国の訪販店を一人で統括していた有働常務が、年末の深夜、トラックにはねられ、入院したまま本日亡くなったとの知らせだった。

 

第五章 誰もいなくなる その②に続く