第二章(個別訪問セールス)その10

(写真は筆者の前の会社の毛布工場にあった連続捺染プラントです)
寝具業界経営コンサルタントの山崎と、野須川寝具産業との間で訪販事業コンサル契約が結ばれ、昭和五十二年の年が明けた。
正月が明けるのを待って、俊平は龍平を連れて東京神田にある山崎の事務所を訪れ、訪販事業を開始するにあたり、新事業部設立準備の手順を話し合った。

そこで山崎は俊平たちに新事業本部の設置場所について提案した。
大阪市鶴見区の野須川寝具産業本社内ではなく、東京に置こうと。
確かに訪販事業を東京で開始するなら、ある程度の規模になるまで京都山本に知られることはないかもしれない。しかも山崎にとっても、いちいち大阪に出かけて指導するより効率が良い。
これに対し、俊平は驚いた顔を見せ、一旦大阪に持ち帰り、皆で相談した上で返事させてほしいと結論を先送りしようとした。
山崎は顔をしかめて話を続ける。
「野須川社長、初めから私と意見が合わないの? この事業の成功は、私が責任を持つと言っているのだよ。どうして信用してもらえないのかな?」
「分かりました、山崎先生。そういたしましょう。但し、東京に赴任する社員は全員単身赴任にしますよ。最初の一年間を見て、事業本部をそのまま東京に置くのかどうかの判断で宜しいでしょうか?」
「良いでしょう。東京の拠点の選定は私に任せてくれるよね」
この時点では、ドア・ツー・ドアという営業形態は、人口が集中した大都会でなければ成立し得ないとの認識を、俊平は持ち合わせなかった。ただ山崎の言うことを初めから聞かないというのでは、事業を成功させる責任をとらせることができないから、無視もならないと譲歩しただけなのだ。
だが、日を追うごとに、山崎の東京から新事業を進めるビジョンとは違って、全国展開を目論む俊平の訪販事業部体制のビジョンが固まって行くと、何時の日か、山崎にそれを明かして、逆に山崎を譲歩させなければならないと俊平は腹の中では思っていた。

山崎も将来は大阪に本拠を置き、東京もその傘下の販社のひとつになるだろうことは頭の隅にあったのだが、取り敢えずは社長の後継者になろうとする龍平に東京で成功裏に事業を立ち上げさせたいと、先ずはそれに全力を傾けなければならないのだから、全国展開など東京での足場を固めてからだと考えていたのだ。

二月になって、寝具訪販事業部の新設が社内で正式に発表された。事業部の名称は「カシオペア事業部」。「CASSIOPEA」は、野須川寝具産業の登録商標として特許庁に届けられた。
問題は新事業部の人事だった。野須川寝具ではこの時期、カシオペア事業部の人事と、それとは何の関係も無い毛布事業部の人事とが、実は密接に絡んでいたのだ。
忠岡工場の毛布生産と毛布受注営業の最高責任者は、子飼い幹部の最年長の牛山常務である。
牛山は元々ベッド製造部の創設者だったが、毛布事業部が誕生した昭和四十八年四月にそちらの責任者になった。ベッド製造部部長の後任は、途中入社の俊平の船栄時代の同僚が選ばれる。
毛布事業部が創設されて四年が経過し、その間、関西の有名私立大学出の牛山常務の緻密な管理能力が活かされ、見事に毎年黒字でやってきた。
その理由のひとつは、俊平以上に慎重な経営姿勢の牛山が、毛布事業部の路線を、帝都紡績アクリル総部の下請け工場路線から一歩も外さなかったからである。
しかしこの牛山の保守的な態度は、テイボーアクリルの毛布を、作って、作って、売って、売って、売りまくって、先発のアクリルメーカーを押しのけて、日本全国を席巻したかった帝都紡績アクリル総部とやがてぶつかるようになった。

帝都紡績は、井筒商事と共同保証までして野須川寝具忠岡工場を創った責任から逃れるかのように、自分たちは原料の提供者に過ぎないと空とぼけ、作った毛布を拡販するのは、野須川寝具毛布事業部本部長の仕事の筈だと、それなのに販売リスクを回避し、ちまちまと加工仕事の賃金を積み上げた儲けを、一切拡販に投資しようとはしない牛山常務の更迭を、堂々と俊平に求めるようになるのだ。
俊平にしても帝都紡績アクリル総部の幹部社員を飲食接待する場で、毎回牛山への不平不満を聞かされるのは辛かった。
牛山常務が毛布拡販への投資をしようとしないは言いがかりだ。毛布事業部はその誕生時から販路開拓に苦しんで来た。
アクリル毛布の業界地図は既に出来上がっていて、後発のテイボーアクリルのシエア獲得に必要な努力は並大抵のものではなかったからだ。
龍平も毛布事業部の営業として、営業経験の豊富な多賀信也と共に、地方問屋廻りをしていた年もあった。

さて俊平は、自力販売力の確保に努め、テイボーアクリル毛布の販売を専業にしてくれる代理店を探し、この数年で全国に俊平直轄の代理店網を築いた。だがその販売量は合計しても、忠岡工場の生産能力から見れば、ほんの数パーセントに留まっていたから、これは帝都紡績へのパフォーマンスだったのだろうか。

その頃、俊平はこれも毛布の代理店のひとつにしようと接触していた、昔俊平がいた商社船栄を吸収した商社日繊の寝具部の課長だった阪本功が、独立して作った毛布問屋を、一旦は代理店にしながら、途中でこの阪本が欲しくて社員毎買収する話を持ちかけた。
俊平は数字に明るく、管理能力の申し分のなさは誰もが認めるだろうが、それよりも一介の農民から天下人に迄なった秀吉さながらの「人たらし能力」の持ち主との評判が上に立っていた。
この阪本功も、負けず劣らずの人たらし術を持った人物で、俊平は自分に似ている男だと感じて、阪本功を毛布の営業部の責任者に迎えたのは昨年十二月だった。
この阪本功を伴い、帝都紡績の役員幹部を飲食接待してみると、お座敷の太鼓持ちの如く、阪本の客への気遣いようは、俊平を大いに満足させるものだった。
帝都紡績から阪本は持ち上げられ、その上にいる牛山はこっぴどく叩かれると、辛い人事異動を決断せざるを得なくなったのが昭和五十二年二月だった。
牛山は社内で人望が厚く、本社の幹部たちからも、忠岡工場工員たちからも慕われていたから、これを崩して牛山を左遷するのは、俊平には時間と労力を要したが、社内幹部社員の根回しが終わった三月には、遂に人事異動を公表した。
阪本は常務取締役となって、毛布事業部の本部長に昇進し、牛山は平取締役に降格され、東京で新設されるカシオペア事業部の責任者となり、下に龍平と阪本の元部下が配属された。
牛山にはまったく寝耳に水の人事異動であって、これまで四年間の輝かしい毛布事業部の成績を思い起こすなら、どこに問題あっての降格なのか、全く解(げ)せなかった。

だが、牛山はここで退社する訳にも行かないと、黙って俊平に従うしかない。
寝具事業部、繊維原料部、ベッド製造部に、毛布事業部の売上が加わり、野須川寝具の年商は六十億円を超える迄になった。
牛山が衝撃を受け、意気消沈したのは、帝都紡績アクリル総部に加えて、嘗て自ら開拓し、今や毛布事業部の売上の半分近く占めるまでに育て上げた販売先の、太平洋商事東京本社寝具部までが、この人事異動に両手を挙げて賛成したからだ。
帝都紡績他多くの関係先に賛同され、俊平が決断したこの人事異動によって、四年後に野須川寝具が潰れることになろうとは、俊平も、この人事に賛同した誰も、まだ全く知る由も無かった。だがそれはまだ先の話である。
この直後に、コンサルの山崎の指示で、龍平は、生来の道義感から言うなら、とんでもないことをさせられるのだ。
それによって、彼の人生に真っ黒な汚点が付き、道義的には社会のルールを踏み外した前科者だと、一生心に負い目を持つことになるのだが、龍平はまだ自らの運命を知らずにいた。

第二章 個別訪問セールス その⑪に続く