第四章(報復の応酬) その11
(第二霊園、筆者が開発した美原東ロイヤルメモリアルパーク、第二工区のバラが咲き乱れるガーデニング墓地。販促用にモデルを使って撮影したスチルの一枚。大阪府羽曳野市埴生野)
妻の実家に泊まった龍平は、明くる四月一日の日曜日、死んだように夕方までは寝ていたが、義父夫婦らと一緒に夕食を食べた後、東京駅から夜行列車で大阪に向かった。
この後の話は、序章に書いた通りである。
淀屋橋の野須川寝具産業本社ビルの社長室で、龍平は「なぜ粉飾してまで、成績を良く見せようとした」と俊平に怒鳴られ、思い切り右頬をげんこつで殴られるのだが、龍平は田岡に言われていた通り、一言も返さず、謝りもしなかったので、俊平から「お前との縁も今日までだ」と言い切られてしまう。
龍平はその後、野須川寝具の幹部や社員たちに挨拶しようとしたが、誰一人、口をきく者さえいないという状況の中、龍平に温かく接したのは、同じビルにいる関西販社の幹部や社員たちだけだった。龍平は田岡のアドバイスで、人目を気にしながら、一旦は東京に戻ることに。
関西販社の初出勤日は、二日後の四日、水曜日と決まった。田岡社長は龍平に、昼間の内に引越を済ませ、帰社するセールスを待ってする夕礼からの出勤を薦めたが、引越は家内に任せるからと、自分は前日の夜行列車で東京を発して、営業に出て行くセールスを自ら見送りたいと、当日の朝礼から出社すると田岡に返答した。
さて、田岡が用意した社宅とは、驚くことに関西販社で探した物件ではなかった。それは野須川寝具の所有物件で、取引銀行の付き合いから投資目的で購入していた、市内城東区今福の分譲マンションの二室の内の一室だったのだから、これによっても、龍平が関西販社に雇用される件は、俊平会長の内諾あってのことなのは明かだ。
大東店は、嘗て東京から大阪に進出したミツバチ・マーヤが、府内で最初に出店した、国鉄片町線(後のJR学研都市線)の鴻池新田駅から、北に十分程歩いて、大阪と奈良を結ぶ幹線、大阪生駒奈良線に面して、諸福の交差点付近にあった。敷地は五百坪だったが、敷地の奥に随分昔に建った小さな倉庫が、龍平が店長を務める関西販社大東店なのであった。
そして敷地の道路に面した側では、巨大な三階建てビルの建設が進む。実はこれも野須川寝具の役員会議に絡むのだが、寝具や毛布の卸業を担当する役員たちから、淀屋橋本社ビルでカシオペア訪販部隊と同居することが、自分たちの仕事の足を引っ張るのだとの声が上がり始め、俊平も無視できなくなって、大東市諸福の社有地にビルを新築することにして、そこへ関西販社の本部と同社淀屋橋店を移転させることにしたのだ。つまりこのビルが竣工する六月一日からは、一階ホールで淀屋橋店と大東店が同居する計画が決まっていた。
四日、夜行列車で大阪に着いた龍平は、京橋駅から鴻池新田駅を経由して、朝の八時には大東店に着任し、ひとりひとりのセールスと話をして、それぞれの人柄を掴んだ。
課は二課体制で、営業は九名、稼働する車輌は四台だった。店長として龍平には異論があったが、今は黙って彼らを見送った。
お昼前になって、淀屋橋の田岡から、すぐに本部に来るよう指示が来る。
淀屋橋の関西販社の社長室で、田岡に会うと、田岡は龍平への言葉使いを二日前とはまるで変えていた。田岡が今や龍平の雇用者になった以上、それは当然のことだ。それまではカシオペア販社の代表者同士、対等の立場だったのが、特に龍平に用も無かったが、今日からは田岡が龍平の雇用者なのだと分
からせる為に、龍平を呼んだのだった。
淀屋橋本社から大東店への帰り道、龍平は引越の最中の今福のマンションに立ち寄る。丁度引越業者が、家財道具などを部屋に運び込む作業が終了し、東京に帰るところだった。部屋の中にはまだ開封もされていないダンボールケースが山積みされていた。智代と雅代は、東京の母と共に早朝の新幹線で大阪にやって来て、今日の家財の受け取りに間に合わせたのだった。
龍平の力を借りずに引越荷物を片づける智代は、幾分ご機嫌斜めだったが、義母は龍平とは口もきかなかった。
引越もあらかた終わりそうなのを確認して、「今夜は初出の日だから帰りは遅くなると思う。夕食は要らない。智代に引越を総て任せてしまって本当に悪いが、後宜しく頼む」と龍平は今福を後にし、大東店に戻った。
これからの販売体制をどうしようかと、いろいろ考えているところに、淀屋橋本社での仕事を終えた前店長の堀川が訪ねて来た。
堀川と龍平は毛布の営業時代から親しい間柄だったし、ミツバチ・マーヤにも一緒に潜入した間柄だった。今の野須川寝具の社員の中では、唯一の龍平の味方なのかもしれない。
セールスが戻って来た。堀川の提案で、今夜は新店長、野須川龍平の歓迎会をしようとのことで、仕事をいつもより早く切り上げて来たのだ。
諸福の居酒屋に全員を集めて、堀川は嘗ての部下たちに、龍平の南関東販社創業の苦労談を聞かせ、自分は龍平を、俊平会長の次に尊敬しているのだと述べ、そんな龍平が、野須川寝具の一部の幹部や、南
関東販社の中川店長一派の讒言(ざんげん)にあって、会社の代表を追われ、こんな店の店長をする羽目になったのだと、今回の事件を、自分の持っていた情報や知識で、憤慨しながら説明した。
「だからな、君たち、ほんとうに俊平会長に忠誠を尽くす為にもだな、この隆平君を、もう一度男にしてやってほしいのだ。それが出来るのは君たちしかいないんだよ。どや、出来るのか」とビールのジョッキを片手に言ったら、全員が「オー、やってやろうじゃない」と叫ぶのだった。
その席で、今月から横浜西店改め横浜店の店長になった中川に、四月の店の売上を競う挑戦状を叩きつけようじゃないかと、酔った勢いで話が纏まってしまった。なんと怖いもの知らずなのか、相手はずっと全国一位をとり続けてきた店なのだ。こちらの店は下から数えた方が早いランクなのだった。
堀川は慌てた。
「おいおい、隆平君に味方してやれとは言ったが、それはいくらなんでも無茶な話じゃないか。返り討ちにあったら、龍平君の顔に更に泥を塗ることになるんやで」
「堀川君、僕は皆がそこまで言ってくれるなら、全員の署名を集めて挑戦状を書いて、横浜の中川君に送ってやろうと思う。前月の大東店の売上は、一千二百万円。前月の横浜店の売上は二千万円」
「そやろ、お前たちでは、逆立ちしても勝てない相手や」
「待て待て堀川君、僕の話を最後まで聞いてくれないか。この勝負、当然大東店の売上を、二千万円台にしなければ勝てません。でも可能性はあるのです。僕が見る限り、この九名の中には、三百万円が売れる能力の持ち主が四名もおられます」
「三百万円、野須川店長、そんな売上が本当に可能なのでしょうか」と平井課長が仰天して叫んだ。
「出来ますよ。私が東京の販売テクニックを伝授します。それに今まで学んで来られたテクニックを合わせ、信販契約の上手な利用の仕方を覚えると誰でも可能なのです。今すぐでも三百万円売る力をお持ちなのは、平井課長に小寺課長、そして大山さん、それに馬淵さんです」
「済みませんが、それはとんだ買いかぶりだ」と馬淵が頭を掻いた。
「馬淵さんは多数の固定客を持って布団の月賦販売をする組織におられたのでしょ。田岡社長の了解がとれ次第、僕はあなたを課長に昇進させ、ひとり車輌でご自分の顧客の家を回ってもらうつもりなのです。三百万円は上がると思うのです」
セールスたちは口を揃え、「そうすることで、この九名で二千万円可能になるんだ」と頷き合った。
それからの龍平は、社長の田岡に虐められ、意地悪され続けた。龍平を口説いて関西販社に引き入れたのは、本当に田岡の意志だったのか、と龍平は疑問を持つことさえあった。
月末になって、大東店は横浜店を抜いて、二千万円をクリアした。一方、笑って大東店の挑戦に応じた横浜店は、一千八百万円に達しただけで、前月売上にも達しなかった。しかしこの数字で全国の売上ランクが決まるのではなかった。この四月からルールが変わって、翌月三日の夕刻で未だ信販会社の承認が得られない売上は、直ちに商品を引き揚げ、前月売上からそれらを差し引いた売上で、ランクを決めることになっていたのだ。
南関東のトップ店、それまでずっと全国一位を走って来た横浜店は、翌月三日夕刻の信販会社の未承認の売上を差し引くと、四月売上が一千五百万円台にまで下がって、ベストテンにも入れなかったが、関西販社の大東店は、信販未承認は二件しかなく、それらを差し引いても、一千九百八十万円を達成し、いきなり全国一位のランクに躍り出たのであった。
第四章 報復の応酬 その⑫に続く