第二章(個別訪問セールス)その1

(筆者の父、野瀬文平が昭和35年から5年ばかり本社ビルを構えた京町堀の現在の風景、手前が靱公園)

野須川家が大阪の平野(ひらの)の長屋暮らしを後にして、新興住宅地の開発が始まった奈良の学園前に引っ越した昭和29年から、龍平が太平洋商事を辞めて野須川寝具産業に転職した昭和四十八年までの、約二十年の野須川家の歴史を、長男の龍平の側から見てきたので、今度はその間の、一家の大黒柱である俊平の歩みを検証してみよう。
俊平が大阪の平野(ひらの)で一棟丸ごと借りた長屋を、自宅兼化合繊原料の倉庫にしていたことは既に延べたが、昭和二十七年になると俊平は大阪市内の江戸堀の木造ビルの二階に事務所を借りるようになっていた。それも朝鮮動乱が導火線になった繊維産業の好況のお蔭だった。翌年二月、俊平は資本金二千五百万円の株式会社野須川商店を設立したことは既に延べた通りだ。
戦後の復興が進むと共に衣料品の需要は沸騰し、生産が急がれたが、その為にはいかに原材料を取得するかだった。今の買い手市場の時代では想像もできないことだが、買う側が頭を下げて紡績会社や合繊メーカーに原料を売っていただく時代だったのだ。

だから俊平の様なブローカーが暗躍できる時代でもあって、原料を回してくれる原料メーカーと如何に深い人的コネクションを持つかで、その商い量が決まった時代である。また原料メーカーの役員幹部と深いコネさえ持てば、商売そのものが廻してもらえ、伝票をやりとりするだけで、売上が出来、マージン(取扱手数料)がいただけることもあったのである。
だから俊平は紡績会社や合繊メーカーの重役幹部を、土曜日曜にはゴルフに接待し、平日の夜は大阪北新地や京都祇園に飲食接待するのに自身の全エネルギーを注いだのだ。しかしこれでは商売人になったのではなく、芸者か妾になったのと変わらないと、俊平は自身の姿を嘆くことがしばしばであった。
今の時代なら他者に自社の利益を分けるような役員幹部がいたら、背任罪で訴えられるに違いない。

さて天然の繊維原料はコットンにしろ、ウールにしろ、海外から輸入されるものが多いが、日本政府は外貨準備を減らしたくなく、輸入に制限枠を設けたり、関税を課けたりする。但しそれが日本で加工され、製品になって輸出されるのなら話は別だ。採算も別だ。その原料に輸出証明書(ED)を付けて、国際的に競争できる価格に戻さなければならないからだ。この様にして、海外から入って来る原料には、国内価格と、輸出用の価格との、二重価格が生まれる。即ち輸出証明書(ED)は、国内価格と輸出価格とのほぼ差額に当たる金額で売買されていた時代だ。
昭和二十九年、俊平が近江商業を卒業した時に入社した大阪船場の繊維商社、船栄は経営が苦しくなり、同じ大阪の繊維商社日繊に吸収されることになった。
この時、俊平は船栄の倉庫に、合繊メーカーの亜細亜紡績が預けた毛梳毛糸三万ポンド(約十三・六ト

ン)がED付きで在庫になっているとの情報を、俊平は昔の職場仲間から得た。どうせ船栄は消えてなくなる、EDなど行方不明になっても仕方ない状況なのだ、千載一遇の好機だと俊平は踏んだ。
だが俊平と組もうとする船栄の仲間はいなかった。もしも亜細亜紡績が代金を受け取る時に輸出証明書の返却を要求したら万事アウトであるからだ。
だがそれでも俊平は一か八かで在庫毛糸の販売を強行した。濃尾地区に輸出証明付きでその梳毛糸全量売却し、亜細亜紡績には証明書代は知らぬ顔をして、輸出価格だけで支払いを済ませた。幸いにも亜細亜紡績も最後まで輸出証明書を返せと言って来なかった。
毛糸梳毛糸の輸出価格と国内価格の差はポンド五百円もあって、加えてマージンを稼いだとするなら、三万ポンドを売却した俊平が手にした利益は、恐らく二千万円にもなるだろう。現在の一億円を超える金額だ。その半分を俊平は会社に入金した。当然船栄の仲間と山分けだったのだろうが、後に国税局の査察にあった時、渡した相手の名前は一切出さず、俊平は黙って消えた一千万円の重加算税を払った。
この事件を契機に、野須川商店の預金口座には大金が残るようになり、それで信用が高まり、翌年からは大阪の一流紡績会社である扶桑紡績と直で取引ができるようになった。
この扶桑紡績からも俊平は可愛がられ、羊毛の糸くずを回してもらうことになった。糸くずの総てが伝票より三割以上入れ目(実際の目方の方が多いこと)になっていて、それを倉庫の中で社員と荷分けして、百俵仕入れしたら百三十俵にして販売するというように儲けさせてもらっていた。
また扶桑紡績から、ある零細商社に出荷する原料の商売も貰っていて、何もせず毎月マージンを稼いでいたが、俊平はそろそろ妾家業から足を洗って実業の道に進みたいと思うようになっていた。

第二章 個別訪問セールス その②に続く