第十章(自分が変われば世界が変わる) その2

(筆者の霊園の六地蔵。背後には循環式の瀧が落ちる。手前には大屋根があって、春夏秋の全体法要はこの大屋根の下で合同法要を行う)

いきなり生産品目をひとつに絞ろうと決めた野須川寝具の方針は、大多数の得意先からブーイングだった。龍平がもしも得意先側の立場に立つなら、それを言い出した俊平会長とここは取っ組み合いの喧嘩をしても良いだろう。
現にそのことで四年間も一緒に受注営業をしてきた龍平の妹の亭主である加藤が、この九月末をもって退職しようとしているのだ。
龍平も羽毛布団の商売から足を洗うことは、腸(はらわた)が煮えくり返るほどの慟哭の思いだった。
しかし既に羽毛の仕入れには限界が来ていたのである。羽毛の支払いは以前から支払いが遅れ気味で、羽毛業者はいつもはらはらしながら、龍平と商売しなければならなかった。
本音で言うなら、そんな思いまでして、羽毛業者は商売をしたくはない。ここで会長の俊平が売掛残を綺麗に払ってくれるなら、商売がここで終わっても、正直御(おん)の字だったことだろう。
龍平もその事情を痛い程理解していたので、父親の俊平が言い出したことは、龍平には渡りに船だったのかもしれない。
羽毛布団の商売をするなら、羽毛布団の小売上代がどんどん下がる中、羽毛の精毛行程から入らねば付加価値がとれなくなっていたし、精毛行程から入る程の量を扱わなければ、最早競争に勝てなくなっていたのである。
しかし得意先の中には、「それならおさらばだ」と野須川寝具との取引を解消できない企業もあった。

名古屋の中村商事がまさにそんな企業だった。
野須川寝具の製品の取り扱い比率は二割を超えている。仕入れした製品の支払いのサイト(手形発行日から決済日までの期間)は、百四十日と言う超長いサイトの手形払いであった。
即ち、この中村商事は、目一杯の資金を地元の銀行から借りながら、目一杯の資金を仕入れ先からも借りなければ、資金が回って行かない企業なのである。
だから中村商事の都合で言えば、いきなり野須川寝具との取引を解消することは、支払手形の残高が急減すること、つまり借金を返済することを意味する。
その代わりの仕入れ先を見つけるか、代わりの融資を銀行から引き出せれば良いが、そのどちらも出来なければ、結局仕入れする品目を変更してでも、野須川寝具の支払手形残高を維持しなければ、中村正治の資金繰りが行き詰まる訳である。
「それじゃ、指圧型敷布団を本格的に扱わなければ仕方無い訳だ」と中村社長は、渋々ではあるが、野須川寝具の生き残り策に合わせて動いてくれることになる。
唯一方針の変更を受け入れてくれる得意先になるが、それはそれだけリスクが伴う取引だと言うことだ。中村商事から受け取った手形は二千万円を超えていた。
もしも中村商事になにかあれば、野須川寝具も連鎖して本業が行き詰まることになる。
龍平は元々中村商事との取引はそういう意味で消極的で、門真の西日本健眠産業との取引にシフトしていたが、俊平が後者の龍平贔屓の矢吹社長と喧嘩して、取引を解消したことで、やむを得ず名古屋の中村商事との取引を拡大しなければならなかった。

仕事では人員整理から、得意先への説明から、羽毛布団関係の機械の売却にも走り回らねばならない中で、九月末には龍平がボランテイアで事務長を務める繁栄経営者会中央支部で、宮本まりあの提唱になる大きな講演会が開かれた。
講師はまりあの知人で、愛知県の某自動車メーカーの労組の委員長だったが、光明の家の熱心な信者で、組合員の多くを光明の家に誘い、なおかつ何十年と皇居清掃奉仕に多数の愛知県人を連れて参加していた。そんな講師を他教区から呼んで、大阪の労働会館を会場として、中央支部だけで二百名を誘ってみようと、副事務長のまりあが言い出したのだ。
男性の幹部連中は真っ青になったが、まりあの熱心さにほだされ、五十名くらい在籍する支部のメンバー全員が新しい人を誘って来ることになった。
蓋を開けてみると、まりあだけで五十名もの人を集めてきて、当日会場に入った人の数は、普段の例会の五倍にも当たる百五十名に達した。その中には他支部の幹部たちもいた。
目標には届かなかったが、一支部で百五十名もの人を集めたことで、空前絶後の例会となった。多数の人をお誘いした宮本まりあの名と共に、そのような大規模な支部例会をマネジメントした有能な事務長として、野須川龍平の名は繁栄経営者会全支部の幹部が知ることになった。
一方、北支部の大村俊子はそれに対抗し、十月に岐阜県の工務店の例の社長を再び呼ぶことにした。目標は北支部だけで百五十名だった。
この講演会には龍平も参加した。龍平は写経の件の礼を講師に言ったが、岐阜から来た講師は、既に忘れていて、覚えてはいなかった。

十月には再び桜台西自治会の住民を集めての、霊園事業説明会が開かれた。
この時初めて住民は「どんな形の霊園になるのか」と質問した。大きな前進だった。
松原の山原設計士は、霊園の図面を住民に示した。設計士にすればこれはほんのたたき台で、恐らくこれから住民の意見を容れて、全く形の違った霊園に設計し直さなければならないのは予想していたし、その覚悟も出来ていた。
元々四十五軒の住宅地にしようとした所で、北側が一番高く、南の桜台住宅地に向かって緩やかに下る、宅地の設計を土台にした南向きに下るひな壇の霊園になっていた。
住民は「これはいかん。これやったら、いくら高い塀で囲ってくれても、一番奥の(北の)方の墓の列が我々の住居から丸見えやないかいな」と口々に言った。
この日の審議の結果、霊園の設計案は住民の方がしてみるからその時間をくれということで、次回の集会は来年の一月にさせてくれと言ってきた。俊平は頷いて了解した。

十月の末、たまたま土曜の午後で四ツ橋の事務所にいた龍平に、まりあから呼び出しがあった。まりあの母親の宮本光子講師が会社に来ているからという理由だった。
龍平は何時ものように呼び出されたらすぐに隣の新町に急いだ。
老婦人の宮本光子講師は優しく龍平を出迎える。
「野須川事務長さん、前月は大きな支部例会が大成功だったのですね。ほんとうにお目出度う」

「宮本先生、それもこれも総てまりあさんのお蔭ですよ。私なんか何もしていません」
「例会が成功に終わった時、主催者として、ちょっぴり幸福に感じたでしょ」
「その通りです。善いお話を聴いたと参加者が喜んで帰って行かれるのを見ると幸福に感じました」
「そうなんですよ。野須川さん。人間って、他の人を喜ばした時に『幸福』を感じるのです。宝くじが当たって楽して儲けたときより何倍もね」
「先生、そう言われたら、ほんとうにそうですね」
「ところで、お父様の霊園開発は少しは進み出しましたか」
「お蔭様で何が何でも霊園に反対ではなく、住民が私たちの霊園を設計しようなどと言い出しました」
「それはお父様が何も言わず、住民の反対意見にじっと耳を傾けておられたからでしょう。お父様は凄い人です。住民の皆様が自分たちで霊園を設計しようと言い出されたのは、文字通りにとって良いのか判断できませんが、後は、住民の皆様にどうしたら喜んでいただけるか、それだけを野須川さんは考えられたらよいと思いますよ」
「先生はもしかしたら、住民はあくまでも霊園に反対で、事業主に開発を諦めさせるため、実現不可能な設計図でも出してくると考えておられるのですか」
「それは分かりません。私はその集会に出ていませんから、住民の皆様が何を考えて、そんなことをおっしゃったのか、分からないのですよ。ただどんなことを住民の皆様がお考えになっていても、事業者側が誠心誠意、ただ住民に良かれと思って、そんな住民の為の霊園を造って行かれたら、住民の皆様と必ず意思が通じると思いますよ」

「そのような心になって次回の住民説明会に当たろうと思います」とは言うものの、龍平にはやはり次回の説明会が嫌な会になる予感がしてならなかった。

十一月はシステム販売のRKBだけで一千万円の注文が入ったから、龍平の仕事は楽勝だった。ところがその月末、RKBの社長から、いきなり取引停止を申し入れてきた。寝耳に水のことだった。俊平に手伝ってもらって、奈良国際での接待ゴルフなどもしていたが、その効果も無かったのか。先方が言う取引停止の理由は、龍平があまりにも金のことを口にするので、それが気に要らないということだった。
龍平の寝具受注生産は、相棒の加藤が入社したバブルの頃から、手形をなみはや銀行で割引してもらって資金化できるようになっていた。しかし一般の企業のように割引枠が与えられる訳ではない。あくまでも一件、一件の稟議を通さなければ、資金化は出来なかった。
RKBは商社も巨額な信用限度を与える企業だから何の問題もないが、なみはや銀行はあくまでその都度の稟議だと言った。すると二十五日の給与を払うためには、二十日くらいには集金しておかなければならない。取引する度にそんな無理を言っては早い目に集金していたことが先方は元々気に入らなかったのが、十一月はこれでもかと買ったつもりが、やはり同じことを懇願されたことで余程腹に据えかねたのだ。
龍平はまた新規に顧客を探さなければならない状況に戻ってしまう。
龍平は、光明の家に教えられていた通り、既に与えられたことに感謝する祈りを続けた。
すると十二月は名古屋の中村商事から敷布団の大量注文が入る。                                                                                                

第十章(最終章) 自分が変われば世界が変わる その③に続く