第五章(和議倒産) その9 

(筆者が経営する霊園の、モデルさんを使った石材店販促用イメージ写真)

俊平は人差し指を口元に立て、井川に大きな声を出すなと目で合図する。
「近所の耳もあるから、井川君、続きは応接間で聴こうか。今日は龍平もいるので、あいつにも同席させよう」
近鉄菖蒲池駅前の俊平の自宅は、寧楽銀行桜井頭取が住んでいた、林間に古い木造建築が建つ敷地二百五十坪の丘陵を、桜井頭取に頼まれて購入し、ブルドーザーを入れて建てた鉄筋コンクリート二階建ての二世帯住宅だ。
地図上では近鉄奈良線の線路が直ぐ前を走るように見えるが、玄関前の道路は線路からは七メートル上を走り、建物は道路から更に三メートルの高台に建っていたので、電車の音も、往来の車の音も邸内からは全く聞こえない。敷地の南側には芝生の庭が拡がり、隅に俊平の趣味の洋ランを栽培するガラス張りの温室が建てられていた。
俊平が隣の耳と言ったのは、最近西側に建った低層のマンションの住民のことであろう。
応接間は広く、玄関ホールと背中合わせの西側の壁には、一枚の大理石を使った長いカウンターが壁に取り付けられ、俊平が集めた古美術品の数々が並んでいる。東側にはグランド・ピアノが部屋のスペースの三割くらいを処狭しと占めていた。
俊平と井川は、部屋の中央の革張りの応接セットに座るが、美智子が三人分のお茶を入れて部屋を出て行くまで、顔を見合わせながらも黙ったままだった。
そこへ「お待たせしました、井川専務どうしたのですか、今日からお休みだと言うのに」と言って龍平が入って来た。
「ドアを閉めてくれ」と言って、井川から聞いた話を俊平は龍平に説明した。

龍平がさほど顔色を変えずに、平然と語りだすのには、井川が驚く。
「やっぱりそんなことでしたか。毛布事業部の月次決算や、入出金の動きには、不審な点が幾つもありましたから、先々月、カシオペア事業のことが一段落した後、香川常務と二人で会長室を訪ね、毛布事業部の業務監査をさせてくれと頼んだのでした」
「会長、その業務監査を拒否したのですか」と井川は叫ぶ。
「拒否はしなかったが、時期を考えろと言った。訪販事業の最終損失が二十億円と決まり、不動産の含み益の総額に迫ったのだ。まだそれ以上、毛布事業部から損失が出たら、儂は山村頭取に合わせる顔が無い。だから業務監査はしても良いが、タイミングはずらせと言ってしまった。香川君は在庫金額や売掛金が変に多いですと言うから、それなら一億くらいは粉飾しているのかと思ったが、そんな金額なら緊急性は感じなかったのだ。ところが、今思えば、あれは今年の春のことだったか。坂本が商社に抱いてもらっていた毛布に、売れ残りが出来たから、一旦買い戻した後に商社に再備蓄することの許可を取りに来たのだ」
「毛布の売れ残りではなく、前年度備蓄毛布の収支精算後の損失そのものだった」と井川は口を挟む。
「そうだろうな。君の想像の通りだろう。儂はそんな取引を、心の中では融通手形取引と同じ様な麻薬取引だと承知しながらも、入って来るのは上場手形だから、これは融手取引ではないなどと、自分に言い聞かせたのだ。手形入金が喉から手が出る程欲しかった時期だからな。数ヶ月先には見返りに出した手形の決済が回ってきて、その分余分に支払いが増えるのに、それも分かっていながら、ついつい許可してしまったのだ。総てはこの儂の甘さから起こったことだ」

「それが何社もの商社を廻っている間に、商社の取扱手数料が上乗せになって、雪だるまになって金額が増加したに違いありません。しかし会長、考えてみれば、その時、香川さんらの監査部隊を入れなかったのは、結果的に大正解だったかもしれません。会長、正直に答えて欲しいのですが、会長は最悪でも和議には持ち込みたいでしょ」
「そりゃ、そうだ。絶対に破産や会社更生法は避けなければならない。だが会社は何も倒産するとは決まってないのだぞ。」
「当たり前です。誰も倒産なんか望んでやしません。私は念には念を入れて、最悪の場合のことを言っているのですよ」
破産でも、会社更生法でも、和議でも、企業の倒産には変わりがないが、和議の成立だけが経営者を退任させず、経営者の職務を続行させられたし、経営者自らの責任で債権者への弁済が出来たのだ。つまり和議さえ成立すれば、俊平や龍平には、潰れた野須川寝具産業を自身で再建する機会が与えられるのである。
井川は話を続ける。
「それで調べてみたのですが、和議って、誰でも申請できるが、成立となるとなかなか難しいらしいです。申請件数の一割も成立していないようですよ」
「井川君、何度も言うが、君は先走り過ぎだ。仮にも当社は帝都紡績の子会社なのだ。儂らの会社の心配は多少なりとも帝都紡績もするのではないのか」
「甘いです、会長。帝都紡績は三洋銀行に頭が上がらなくなりました。日銀の超金融引締政策のせいです。仮に帝都紡績が、我々を助けようと思っても、三洋銀行が許す筈がありません。今の帝都紡績が、

子会社であろうが、他社を助ける余裕なんてありませんよ。なみはや銀行だってそうです。なにはや銀行って、地銀ですよね。毛布の損失で我々の負債額は百億を突破するでしょうが、そんな規模の倒産となれば、我々を助けるどころか、なみはや銀行の経営だって大きく揺らぐのではないですか」
戦前第一位の五稜財閥に続く三洋財閥は、GHQに財閥が解体された戦後、三洋企業グループとなったが、帝都紡績は三洋企業グループの一員だった。なみはや銀行は地銀と言っても、戦後に出来た新参の銀行だ。
井川は話を続ける。
「だから帝都紡績や、なみはや銀行に報告するのは少し待って下さい。それよりも和議の準備の方が急ぎます。だから年初の月次決算会議は、毛布の粉飾には一切触れずに、何事も無かった様に平常を装っていて欲しいのです」
これには俊平が激高した。
「巨額の損失発生を知りながら、世話になっている帝都紡績にも、なみはや銀行にも黙っていて、その間に和議の準備をしろとは、何ということを言うのだ。そんなことがしゃあしゃあと出来る奴は人間じゃない」
「何が人間じゃないです。私はこれでも会社と社員のことを心配して言っているのです。社員なら誰でも、突然債権者に破産をかけられ、給与も貰えず、職場から放り出されるのはご免ですよ。よく聞いて下さい。和議成立には、その道の経験豊富な弁護士を探す必要があります。お金も要ります。当社の負債の規模なら、そして有能な弁護士の先生なら、その先生には何千万円と積まねばならないでしょう。

その金を用意するのも、今すぐは出来ませんよね。それに裁判所への供託金だって要りますよ。金が無ければ、破産もできないって、世間が言う通りです。それに大口債権者への根回しの時間だって要る。まさか和議申請の日まで黙っておけと言ってるのではないのです。和議の準備の進み具合を見て、問題の公表のタイミングを計ってくれと言ってるのです。毛布の損失は全額でいくらなのか、それを知りたい会長のお気持ちはよく分かります。だがそれを堪えて時期を待って下さい。それに会長が世間にこのことを公表すれば、一番動揺するのは、訪販の販売店のセールスですよ。彼らはどこへ行っても飯が食えるのですから、あっという間に散ってしまうのでは」
「うーむ、井川君の言うのも、尤もなところがあるな」
「それにもうひとつ、会長は人が良いから、なみはや銀行に、個別に担保物権に極度額を付けるのではなく、一括して極度額を決めて、それへの共担(共同担保)として、ご自宅を抵当にいれておられますよね。下手をしましたよ。たとえ和議を申請しても、この売却し易いご自宅は、共同担保物件の中から、恐らく真っ先に獲られてしまいます。龍平君、あれは智代さん愛用のピアノかい」
「はい」
「こんなのや、会長がお持ちの金目のものは早く他の場所に移した方が良いのでは」
「なんで息子の嫁のものまで、債権者に押さえられなければならないのだ」と俊平。
「会長、冷静に。井川さんは私たちのことを心配して言って下さっているのですから、ただ井川さん、私たちがそんな動きを見せたら、何か隠し事をしているに違いないと債権者たちは、疑心暗鬼になって、一斉に破産をかけてくるのではありませんか。その方が収拾のつかない混乱を招きます。今更ばた

ばたしない方が良さそうです」と龍平。
俊平は最後に次の様に言って、井川を見送った。
「そうだ、こいつの言う通り、今更ばたばたしても始まらない。まあ正月休みの間に、井川君の言ったことをじっくりと考えてみよう。その結論が出るまで、このことは誰にも言わない。約束する。だから龍平も、このことは智代さんにも内緒だぞ、分かったな」
だが、年が明け、十二月の月次決算会議が始まると、俊平は井川の予想だにしなかった行動に出た。
何時もなら月次決算の数字について各部門に質問攻めにする俊平が、この日は終始無言で、為に会議は半時間で終わってしまう。
全員が会議テーブルから席を立ち上がりだすと、俊平は坂本専務と香川常務を呼んで、こう言ったのだ。
「坂本君、この後、そのまま儂の部屋に来てくれ。君に尋ねたいことがあります。香川さん、急で申し訳ないが、今日の十一時から五時までの間で、順番はどちらが先でも良いが、二時間は空けてもらって、山村頭取と、帝紡の十河専務のアポをとって欲しいのです」

第五章 和議倒産 その⑩に続く