第八章(裁かれる者たち)その9

 

(筆者が経営する霊園の販促写真。参道の向こうに建築中の永代供養塔が見える。これからの埋葬形態の変化を見越して造られた建物。これまでのように墓地を買って、その上に墓石を建てても、そのお墓を看る人がいつまでいるだろうかと、誰もが思い出すようになった。そこで考えられるのは、建物の中に集団で埋葬し、霊供養は第三者に任せる方法である)

平成二年十二月二十九日土曜日の夕刻、明日から年末年始の休みに入る日で、どちらの職場でも午後は仕事を止めて従業員で職場の清掃をし終わるような時刻である。俊平は午前中だけ会社に出て、午後から自宅に帰宅していたが、そこへ丹南町の海原助役から俊平に電話が入った。
昨日、大阪府から回答があって、野須川俊平氏が申請している同町丹比地区の三千坪の調整解除の申請は、どうあっても許可できないとのことである。助役としては、南大阪での有力者である黒田会長からの懇願でもあったので、まさか大阪府が許可しないなどとは思ってもみず、宅地の設計から、工事の承認から、一から十まで丹南町が首を突っ込んできたのだ。それが結果、水泡に帰して、「野須川俊平さんには多大な迷惑をかけてしまった」と、「よって責任をとって自分は役場を辞めます」と言って来たのだ。
「何をおっしゃいます、海原助役。調整区域解除が出来なかったのは残念だが、だからと言って、儂は助役に責任をとってくれなどとは思っとりません」と俊平は海原の翻意を促した。ここで町役場で一番頼りにしていた海原助役に町役場を辞めてもらうともっと困るのだった。
「糞、どうしてこんなことになったのだ。いや、駄目だ、このまま終わらす訳には行かない」と思い直し、俊平は急いで藤井寺の黒田会長に、海原が言ってきたことを報告した。
「黒田会長、大阪府のこの決定は絶対なのでしょうか。なんとか覆す方法は無いのですか。その為なら民自党の力でも儂は引っ張って来ますが」

「野須川さん、儂は丹南町議会がこれへの協力はできんと意志表示した時に、もしかしたら、こんな結果になるんやないかと思っていたんや。野須川さん、気の毒やが、この件は諦めるしかないようやな。あんたは儂の名を出して強引にことを進めてきたよな。それで駄目なら、今度は民自党かい。確かに儂らが立ち向かえば、法律も少しくらいは歪んでくれるときもあった。しかしいつもそうなるとは限らないんや。世の中には引き時ってものがあるしな。府の職員の中には驚く程、肝が座っている奴がいるようや。もしかして、あんたが儂の名を出して強引に進めようとしたことが逆に裏目に出たかもしれないんやで。もしそうやったら、民自党を出そうが、それも同じことや」
「それじゃあ、儂はどうしたら」
「残念やが、諦めることやな」
「そ、そんな、黒田会長、それはいくら何でもないでしょう」と叫ぶ俊平を突き放すように、黒田は俊平を見捨てて電話を切ってしまった。
仕方なく俊平は、秦田に電話する。秦田も自宅に戻っていた。
秦田は絶句し顔色を変え、しばらくはなみはや銀行には言わないでほしいと俊平に懇願する。
しかし俊平にはそうは行かない。このような重要なことを黙っていることが、後で自分のどんな落ち度になるかもしれないのだ。
俊平はなみはや銀行本店の融資部長に電話した。彼はまだ職場で残業していた。
現在の最大の債権者は三十億を超す浪銀ファイナンスだ。一方、なみはや銀行の債権は約九億円で、この申請地と八幡工場に担保を付けていたが、本当は和議決定の時、免除された筈の債務だった。

だが帝都紡績と共に、この二社の債務だけは免除されることは無かった。だからと言って払えとも言わず、免除するとも言わずに、九年の年月が流れていた。
であれば実質の債権者は、三十億余りを融資する浪銀ファイナンス一社になるが、丹南町宅地開発の失敗を銀行に報告すべきなのは、浪銀ファイナンスがなみはや銀行の子会社であったからだ。
融資部長はびっくりして「じゃあ、これからどうされるんですか」と俊平に尋ねた。
「今後どうするか、その案は年明け早々に文書にしてお持ちします」と答えるのが俊平には精一杯だ。
八幡工場を十六億で買い戻したのも、黒田会長に九億円の開発費・造成費を払って楠木住建に五億円もの解約料を払ったのも、総てはこの宅地を宅建業者に三十億で売るのを当てにしたからであったのだ。
なにはや銀行はどう出るだろうか。今後の回収を絶望的とみるなら、子会社の浪銀ファイナンスに野須川寝具に破産をかけさせるかもしれない。
浪銀ファイナンスの回収は絶望でも、工場の売却で担保設定額ぐらいは回収できようと、なみはや銀行なら思うのではなかろうか。
またこのあやめ池の二百五十坪の自宅も、お気の毒だがこの際売却されて浪銀の返済の一部にして下さい、ぐらいは言ってくるだろう。
いったい、二階に住む息子等になんと言ったら良いのだ。
兎に角、負ける訳には行かない。なんとか解決策を考えるのだ。
と言っても、持てる不動産は、自宅と八幡工場とこの丹南町の販売できなくなった四十五軒の宅地しかないのだ。

俊平は夜も寝ないで必死に打開策を考え続けた。
しかしいくら考えても、何も見つからない。
仮に何か策があっても、それに新たな資金が要るのなら、もう貸してくれるところも無いのだ。
俊平は万事窮すであった。
俊平が不眠のまま、五日間が過ぎて行った。
そして初出の日の前の日、平成三年の一月三日の夕刻になる。
息子の嫁の近所の友達たちがやって来て、玄関に仕上げし終わった羽毛ポンチョを積み上げて帰って行った。それをみて俊平は息子の嫁の智代にこれは何だと尋ねる。
「お義父様、私たち家族では到底間に合いませんので、韓国から輸入された羽毛ポンチョの仕上げを、ご近所の私のお友達にも頼んでいたのです。お蔭で全部仕上げることができました」
「そうだったのか。それじゃ、智代さんはこの正月、どこにも遊びに行かなかったのか」
「はい」
「初詣も」
「はい、まだ行っておりません」
「智代さん、知らなかったとは言え、それは悪かった。ほんとうにスポットで貿易なんか、するものではない。龍平があんなに警戒していたのにな。儂がお人好しだった。この埋め合わせはきっといつの日か、させてもらうからね、智代さん。ところで龍平はいるかい。いたら後で話があるから儂の処に来るように言ってください」

応接間に龍平を呼んで俊平は初めて五日前の海原助役が電話してきた内容を伝えた。明日にもなみはや銀行が破産をかけてくるか、その宣告をしてくるだろうから、龍平に黙っていてもどうせすぐに分かってしまうからだ。
俊平から宅地開発の失敗を聞かされ、龍平は絶句した。
「すまん。すべては儂が悪かったのや。誰の所為でもない。儂の考えが甘すぎた。もしかしたら、この家も出なければならないかもしれない。お前たちもその覚悟でいてくれ。しかし仮にそうなっても、なみはや銀行には儂らの住む家くらいは用意させるし、仕事ができないようには絶対にさせんからな」
龍平はここであまり状況を悪く見てはならないと自分に言い聞かせるのだった。
じつはあれだけ入らないと決めていた光明の家の大阪府繁栄経営者の会に、龍平は昨年の暮れ、日曜講演会に行くたびに説得されて、遂に入会していたのだった。しかも法人会員に。
破産にかけられるのではと思うと、そうなってしまうのだ、だからそうはならないと思わなければならないと、日曜講演会で聴きかじったことを龍平は思い出したのだ。
「今から最悪の状況を想定するのは止めましょう。希望さえ捨てなければ、またどんなところから解決策が転がりこんで来るかもしれないのですから」と珍しく龍平が父親を慰めるのだった。
ところが、事態は龍平の思った通りになった。なみはや銀行は一向に四ツ橋の事務所に来なかった。
正月休みが冷静にさせたのかもしれない。すぐにやいのやいのと言ってみても仕方が無いと、そんなに早く対案が見つかる訳もないと、思ってくれたのかもしれなかった。
初出の週の翌週の一月七日月曜日、見られない客が四ツ橋事務所を訪ねて来た。

名刺には関西石材の霊園開発顧問、本田敏夫とあった。紺のスーツに赤いネクタイを付け、黒田会長らと共に着ていた土建屋の連中とはまるで違うダンデイーな男だった。
本田は俊平から名刺をもらうと不敵に笑った。
「野須川さん、えらいことしやはりましたな。あんなにお金掛けて造った宅地がパーになってしまったのですって」
「なんで君がそんなことを知っているのだ」
「私は実はあの土地に隣接する桜台ニュータウンの住人なんですよ」
「じゃ、うちの宅地の前の住宅のどれかということかい」
「いいえ、あそこは桜台西一丁目、私はその南の西二丁目に住んでいます。だから一部始終、お宅の宅地開発に注目していたのです。私が今日来たのはね、あの宅地造成で損をされた分を取り返していただきたいと、アイデアを持参した次第で」
俊平は驚いて、もう一度彼の名刺を見直した。
霊園開発顧問、つまりあの土地を霊園にするのか、と俊平はこの男の顔を凝視した。
側にいた龍平も驚いて、その席にやって来る。
「君の考えていることは聞かずとも分かるんやが、儂らはあの三千坪の土地を宅地にして三十億で売らなければならなかったのや。君のアイデアとやらで、三十億もの金が出きるんかいな」
「三千坪の土地があれば、私は三十億で売ってみせましょう」

第八章 裁かれる者たち その⑩に続く