第五章(和議倒産) その2
(筆者が経営する堺市の霊園の管理棟の中。二人の女性はモデルさんである。)
あれは七年前に起こったのだ、と龍平の頭脳に往時の記憶が蘇る。
昭和四十八年(一九七三年)十月六日に始まった第四次中東戦争に端を発する、世界的な原油の供給危機は、日本国内の石油製品を始め、石油を原料とするあらゆる製品の価格暴騰を招いただけでなく、石油とは全く無関係の生活関連商品までに消費者が買い溜めに走った為、総ての商品の供給不足を引き起こし、日本経済の大混乱を招いた。全国のガソリンスタンドで、給油する車の長い列が出来るのは当然として、全国の量販店では、なんとトイレットペーパーを買い急ぐ主婦の長い列が出来るという狂乱の日々が続いた。
この時、日銀は公定歩合をごく短期間ではあるが、一挙に九パーセントに引き上げ、ショック療法を試みる。お蔭で年が明け、春が訪れる頃には、物価も沈静化を見せた。この年は龍平が太平洋商事を辞めて野須川寝具産業に転職した年である。
話は龍平が野須川寝具に入社する一か月前に遡るが、泉州忠岡町の大津川沿いに新設になった、野須川寝具産業毛布事業部の忠岡工場は、一か月後に迫る工場の「竣工式」に向けて、テイボー・アクリル使いのタフト毛布の、タフテッドから染色(無地染・捺染)、起毛、仕上を経て、縫製に進む一貫生産工場としての稼働の準備に掛かっていた。
忠岡町の北側を大阪湾に流れる大津川の対岸は泉大津市であって、昔から毛織毛布の生産地であったが、戦後、毛織毛布よりも廉価で量産型のアクリル・タフト毛布が登場すると、泉大津での毛布の生産が更に盛んになった。
毛織毛布も、タフト毛布も、毛布一枚ごとに切断した面を隠すのに、ナイロンタフタのヘリ地を使うが、泉大津はパートの主婦がミシン工として集められ、ヘリ付け工程を引き受ける下請け工場が無数にあって、他にも毛布用途に絞った染工場や、複雑な柄をプリントできるオートスクリーンを置いた捺染工場などの下請け工場が、素材メーカーから原料を引き出し、一年中、毛布を生産する毛布メーカーと相互依存の関係を作りながら、泉大津市という毛布の一大産地を形成していた。
戦後に誕生したタフト毛布の素材であるアクリルを生産する、日章化成、五稜レーヨン、太平洋紡績、皇国人絹など多数の合繊メーカーが毛布作りに参入したが、泉大津での毛布の生産は、やがてはカシミヤに似るという意味のネーミングで販売した日章化成アクリルのシエアが最大となった。
今回、帝都紡績が後発でアクリル生産に乗り出したのだが、各メーカーのアクリルがひしめき合う衣料業界ならいざ知らず、日章化成の寡占体制が出来上がった毛布業界で、帝都紡績のアクリル毛布が一定のシエアを新たに獲ろうとすることは、常識的に言うなら、かなり無謀な挑戦だと言うしかなかった。
新設の野須川寝具毛布工場は、無地染め毛布の連続生産には成功していたが、未完成なのは捺染、即ちプリント毛布の連続生産であった。来る日も来る日も、失敗作の山が出来るのだ。俊平には眠れぬ日々が続いた。
単純な水玉模様だが、なんとか試作品が出来たのは、四月に入った、龍平が野須川寝具に入社したその日だった。
その数日後、全国から業界の著名人が招待され、テイボー・アクリル使いの毛布連続生産工場竣工のお披露目が大々的に行われた。
画期的な連続生産の総柄プリントのタフト毛布とはどんなものかと、数こそは出てなかったが、既にオートスクリーンによる込み入った総柄毛布を見ていた業界の人々は、これを楽しみにしながら、こんな泉州の片田舎までやって来たのだが、芋版式の回転ロールが五本並んだ捺染機と、その製品である水玉模様の試作毛布を見て、誰もが失笑して帰って行った。
野須川寝具毛布事業部としては、まだまだ捺染機を使いこなせず、初年度の総柄プリントの販売は、断念せざるを得なかった。
この工場が毛布の縦幅、二メートル幅の基布のロング反を繋いで連続生産する特徴を活かし、ピンク、サックス、ベージュ、ゴールドと言った無地染めにした上に、捺染機で天地に同色系の濃色で、織毛布の様なボーダー柄をプリントしたものに生産を特化することに決まった。それは販売戦略の大きな後退だ。
このような販売のハンデを乗り越えようと、販売強化策が練られ、龍平と多賀と堀川の若手三名が毛布販売課長に新たに任命されることになった。
多賀は本部長の牛山常務と二人で、太平洋商事東京本社の寝具課を通じて大手量販店や関東地方の問屋への販売を担当した。
堀川は瑞穂花井商事を通じて月販ルートへの販売を担当し、龍平は地方問屋への卸を担当した。
この頃の毛布の日々の生産量は二千枚くらいである。目標の稼働率の半分以下であった。
それでも龍平が地方の問屋の毛布担当者を大阪に呼び、工場を見せると、その担当者は生産能力の大きさをまざまざと見せつけられ、気分が悪くなって、トイレに駆け込んだほどだ。一日の生産量の二千枚が、この問屋の一年間の毛布扱い量だったからだ。
さて俊平は、この年の七月の二週間、龍平に毛布の販売を中断させ、業界紙の発行と業界のコンサル業をする山崎が企画した、アメリカ小売業界の視察ツアーに参加させている。この時の参加企業はメーカー、問屋、専門店まで四十社くらいだったが、龍平は参加者の中から、ミツバチ・マーヤの遠藤会長の弟、遠藤専務と知り合い、いつも行動を共にした。
遠藤専務が気の合う龍平を弟の様に可愛がったのだが、二人は共に学習意欲旺盛で好奇心が強かったから、ロサンゼルスのホテルのセミナーでは一番前の席に並んで座り、シカゴやニューヨークの夜の食事の後はホテルを二人で抜けだし、ズック靴で深夜まで歩き回った。ズック靴は、危険な目に遭ったなら、脱兎の如く走って逃げる用意だ。毎日殆ど眠らなかった。酒も女も求めなかった。眠る時間を惜しんでも、時代の最先端のものを見付けたい遠藤専務は、酒や女に時間を費やすのは、旅の貴重な時間の無駄使いだと考える人だった。
龍平は親しく遠藤専務とは付き合いながら、彼の会社である、ミツバチ・マーヤがどのような販売形態で布団を売っているのか、知らずにいた。ツアーが終わると、二人は親友のまま別れたが、まさか後日、互いに天敵になる運命だったとは、神のみぞ知ることである。
九月にも一週間だが、龍平は海外出張で、再び毛布の販売を中断している。
定年が迫る帝都紡績のアクリル部の一人の課長が、そろそろヨーロッパにでも出張させて欲しいと会社に願い出た。するとそんなに外国に行きたければ、毛布メーカーの山信が生産基地として進出したバンコクとジャカルタの二都市を回って来いと、そしてそれらの国に野須川寝具の毛布を輸出する契約を結んで来い、との返事が戻って来た。
戦争でタイに進駐した山信の創業者、山本信一は、熱帯の国々では日が暮れて気温が三十度を下回ると国民は寒いと感じるので、日本以上に毛布が売れると確信して、戦後日本の故郷の奈良県に戻るも、再びタイやインドネシアに渡り、そこで毛布工場を作ったという。本社は大阪の船場にある。
この課長は、慌て船場の山信と接触し、誰か一緒に行ってくれと頼んだのだが、山信は先方の町では通訳のお手伝いはするけれど、ご出張の同行は、生憎誰も都合が付きませんと断って来たので、それではと白羽の矢が野須川寝具の龍平に立ったのだ。
しかし龍平は太平洋商事にいても、貿易実務は勉強していなかった。慌てて太平洋商事編物製品課にいた頃に知り合った、バンコクと商品の輸出入をしている大阪船場の問屋「セラヴイ」に駆け込み、社長ににわか勉強で貿易を教わってバンコクに向かった。
空港では山信の現地スタッフが出迎え、タイ国を離れるまで彼らがアテンドしてくれるのだった。一日は山信の工場を見学し、一日はバンコクのサンペンという問屋街を回った。大阪船場の問屋街ではなく、もっとごった返した大阪鶴橋の国際市場に近い問屋街だった。そしてその中の一件の華僑の店で、山信のスタッフに通訳を頼みながら、龍平はオートスクリーンで花柄を全面にプリントした、ベッドサイズ(一八○×二三○センチ)のタフト毛布、五十枚の受注をとる。
出張の後半はジャカルタだったが、バンコクのサンペンよりまだ汚く狭苦しい市場で、そこでの成果は出なかった。
東南アジアから戻って来ると、防寒着の裏地を生産し、毛布の生産を抑制しようとの計画が帝都紡績から持ち上がり、地方問屋を廻っていた龍平の仕事は再び、中断され、全国の問屋は全て太平洋商事東京本社の寝具部経由で販売することとなって、以後龍平はただ一人、防寒着の裏地の担当になった。
防寒着の産地は、日本ではただ一か所、広島県の備後地区にあった。龍平は十月に入ると、広島からバスで数時間も揺られて備後に入り、その地区の最大手の防寒衣料を扱う問屋、五つ星衣料に裏地の売り込みに掛かった。第四次中東戦争が始まったのもこの頃である。龍平は遠い外国の戦争が、やがて自分の仕事の前に立ちはだかることになろうとは思ってもいなかった。
備後地区の防寒衣料のタフト裏地の供給は、大阪の北国(ほっこく)産業の寝具部が一手に引き受けていた。現地の生地問屋の人々は、龍平にそれを知って来たのかと尋ねた。
「失礼だが、私は北国産業なんかを相手にする者ではありません。私自身、太平洋商事の営業を務めて来ましたし、私の会社は天下の帝都紡績の子会社なのですから」と龍平がしたり顔ではったりをかますと、現地の人々は真顔になって話を聴くようになった。
五つ星衣料の仕入部長は皆を代表し、「テイボーアクリルのタグが衣料一着ずつ付けられるのだね。それなら今期は、そちらと北国産業と半分ずつで企画することにしようか」と言ってくれる。だが月末になると、オイルショックが始まり、世界中で原油不足となり、石油を原料とするナイロン、ポリエステル、アクリルと言った合成繊維の価格をこの際、二倍にしてしまおうと合繊メーカーが考えるようになった。
そこで帝都紡績のグループでも、先物の契約は一切禁止と、忠岡工場で製造して在庫で置かれて毛布や防寒着の裏地のA反を残らず帝都紡績の倉庫に納入させてしまったのだ。
第五章 和議倒産 その③に続く