第六章(誰もいなくなる)その11

 

(筆者が経営する羽曳野の霊園のバラ園を、モデルさんを入れて池田厚司氏が撮影)

まる一ヶ月、自分を苦しめた膵臓炎による胃と背中の痛みが、嘘の様に無くなったのは嬉しいことだが、龍平には現代医学でも治せない病がなぜ忽然と消えたのか、いくら考えても納得できず、不思議でならない。
何かが効いたと言うよりも、何か目に見えない力が自分を助けてくれたとしか考えられない龍平だった。
何故そんな風に考えるのか、実は三年前の春、同じように九死に一生を得る経験をしていたからだ。
昭和五十九年にもなってクーラーも付いていない旧い日産バイオレットに、龍平が九年も乗っているのを見て不憫に思ったのか、父親の俊平がトヨペット・コロナの最新型を龍平たち家族に買い与えた一ヶ月後のことだった。

コロナはバイオレットよりも車体が一回り大きい。往時コロナには排気量の違うニクラスがあって、俊平にも予算があったのか、バイオレットと同じ排気量の五ナンバーのタイプを選んでいた。しかも龍平が乗った初めてのノークラ車で、FF車だった。車体重量と出力のアンバランスさや、咄嗟にシフトダウンが効かない油圧式自動変速ギヤと、重心が車の前方に偏るFF構造の三つの要因が重なって、スピード違反の常習者だった龍平を横転事故に導いたのだ。
太平洋商事時代の同僚で、龍平とほぼ同時に同社を退職し、船場でニット生地の貿易会社を創業した先輩がいた。戦後三十年にして我が国は世界の繊維工場となった。それにブレーキをかけたのがニクソン大統領で、日本に繊維の対米輸出規制枠の網をかけたのだった。
その先輩は、アメリカの繊維企業が規制枠を超えて欲しがった伸縮自在の日本製スパンデックスで編んだニット生地を、輸出規制を逃れ、香港経由で米国に輸出して大儲けをした。その儲けた金で小型クルーザーを買ってトローリングを始めたのだ。
三年前の五月、和歌山県の沖で釣り仲間が集まり、トローリング大会をしようと、その前夜、紀伊半島の先端にある、すさみ漁港の釣り宿に集まることになった。先輩は先に大阪港からクルーザーで出発し、仕事があった龍平は夕刻から一人車で大阪を出発した。
ただ夜道に車を走らせる龍平は気が重かった。一ヶ月前、先輩のクルーザーに乗せてもらい、龍平は白浜沖で体長一メートルのシイラを三匹釣ったことがあった。シイラは三匹ともクルーザーに引き寄せられるのを必死に抵抗した。トローリングとは、いかに重い魚を、いかに細い糸で釣り上げるのかのポイントを争うスポーツで、ヒットして釣り上げるまで、いくら時間をかけようが自由である。

だから必要以上に細くした釣り糸を、リールから出したり、巻き上げたりしながら、シイラが弱るのを待つ。かなりの長時間、犬くらいの大きさのシイラには、命がけの格闘となるのだった。それは決して龍平には気分の良いものではなかった。
今回の大会は、人間くらいの体長があるカジキを狙うものだ。もしも龍平の疑似餌にカジキが食いつけば、シイラどころではない死闘になるだろう。それを想像するだけで耐えられない気分だった。こんなことならトローリングなど、始めるのではなかったと龍平は後悔しながら車を走らせていた。
車は真っ暗な闇の中、国道四十二号線の、白浜を過ぎて椿温泉辺りの海岸沿いの道を、猛スピードで走っていた。上り道の傾斜がきつくなったので、一気に駆け上がろうと、思い切りアクセルを踏んだ時だった。車はジャンプするかの様に峠を一またぎして下り坂に突っ込んだ。見れば下り坂は右に大きくカーブしている。すぐにブレーキを踏み、ハンドルを右に切ろうとしたが、シフトダウンに手間取り、FR車のバイオレットのようには小回りも効かず、駆け下りて行く車体重量による慣性が、右に曲げようとする力に打ち勝ち、右曲がりのレーンを外れて、そのまままっすぐ道路脇の左側の土手に向かって突進した。
土手が目の前に迫って来る。龍平はこれで自分の人生が終わったと思った。ところが車の動きが急にスローモーションになって、時間の進行が超スローな別次元の世界に入った。時を刻む音だけが聞こえる。水道の栓から水滴がぽたっと落ちるような小さな音だった。それ以外は何も聞こえない。水滴は恐らく何千分の一秒を刻んでいるのだろう、と思った。
走馬燈の様に半生の様々な思い出が龍平の脳裏に浮かんでは消える。
最初は平野の長屋の屋上の物干し台から階段を、よちよち歩きの自分が頭から落ちた時のシーンが蘇った。


父の俊平が幼児の龍平を抱いて病院に血相変えて走るシーン。病気がちで学校を休みがちだった小学生時代。山登りが楽しかった高校や大学時代。青春時代の三つの失恋。そして智代と結婚式を挙げたシーンが出て来た。龍平は娘二人を抱えて残される智代に済まないことをしたという反省で胸が一杯になった。
どこからか、「これからあちらの世界に行ってもらうぞ」と厳かに言う声が聞こえた。言った人物の姿は見えない。
その声の主は更に続けた。「だが其処へ行く道はとても狭いのだ。その身体を被ったままでは到底その道を進めない。身体のままで入ろうとしても、回りから圧迫されて、お前の身体は粉々に壊れてしまうだろう。その痛みにお前は耐えられるだろうか」
龍平は声の主が「幽体離脱」を命じているのだと理解した。思い出せば、幼い龍平が屋上から落ちた時も、階段の角に当てて割れた頭から真っ赤な血が顔中に溢れていたのだから、辺りの風景など絶対に見える筈は無かった。叫び声と共に幼児の龍平が屋上から落ちてきて、階段の角で頭を割ったのを、たまたまそこにいた俊平が気がつき、慌ててタンスから洗濯した下着を取り出して包帯を作り、龍平の頭をぐるぐる巻きにして、そのまま龍平を担いで一気に家の外に駆け出したのを、龍平は自分の肉体から離脱して、天井の高さくらいからじっと見ていたことを今もはっきりと記憶している。あれは「幽体離脱」だったのだと確信していたが、そんな非科学的な話は誰にも言えなかった。一旦離脱した龍平の幽体は、又元の身体に戻って命を取り留めた。
しかし今ここで幽体離脱する方法は龍平にも分からず、ハンドルを握ったまま、ゆっくりだが次第に迫ってくる土手を呆然と見つめるしかなかった。

その時だ、凄まじい衝撃で龍平はハンドルの前に吹っ飛び、突き当たったフロントガラスを粉々に割って気を失った。昭和五十九年はシートベルトが装填され始めた時代だが、それを装着して運転するドライバーはまだ殆どいなかった。
しばらくして龍平は、はっと気がつく。自分はまだ生きている。しかも車は土手に衝突する前に道路の左端に背を向けて横転したのだ。龍平は割れたガラスで一杯になった助手席の窓の上に転がっていた。窓ガラスは木っ端微塵に割れ、龍平の身体は、アスファルトの上に散らばるガラス片の上にあった。フロントガラスも枠に破片だけが残るという悲惨な状況だ。夜風が吹きさらしだった。龍平は狭い空間の中、なんとか立ち上がって、エンジンの電源を切り、運転席側のレバーを回して窓を開け、やっとのことで車外に脱出した。もしも現在の自動ウインドウなら、外に出られなかっただろう。
携帯電話も無い時代であるから深夜には警察にも保険会社にも連絡ができない。事故車は道路の左端に横転しているものの、車の往来を邪魔してはおらず、そのまま明日朝まで放置することにして、身ひとつで後ろから来た釣り客の車に乗せてもらい、宿泊予定のつり宿に送ってもらった。翌日はトローリングをキャンセルし、釣り宿の主人に白浜警察まで送ってもらい、事故を届け出た。
車は買って一ヶ月だったが、もう一台買える程の修理代を保険会社から出してもらう。応対した白浜警察の署員は、この車の車体重量とエンジン出力はアンバランスだと思うと、今後はエンジンに二種類ある車なら、必ず排気量の大きいエンジンを選びなさいと龍平に助言した。だが実際の原因は龍平の速度の出し過ぎだった。
龍平はこの事故を切っ掛けにトロリングは止めてしまった。

龍平はこの三年前の九死に一生を得た体験に加え、今回の治らぬ病気が消えてしまったことを合わせて考え、自分はきっと目に見えない力の守護を受けているのかもしれないと思うようになった。

名古屋の寝具問屋、中村商事以外に、なみはや銀行が龍平に手形割引を許可した企業に大阪門真市の西日本健眠産業があった。
社長は矢吹と言って、故郷の広島県福山に工場を持って、そこで健康寝具を製造しながら、寝具全般の仲間卸を営んでいた。取引は矢吹からの相談から始まった。
会社のメイン商品は敷布団にイオン発生装置を取り付けたものだったが、ある日大量の受注に追われ、納期通りの出荷が出来なくなったのだ。
そこで矢吹は、訪販の事業を終えた野須川寝具が、工場を稼働させる為に仕事を探しているとの話を小耳にはさみ、龍平に器具の取り付けを一部手伝ってくれと頼み込んで来る。
龍平は快く受けてやることにした。器具と敷布団が到着したら、翌日の内に出荷しなければならない。
だがその仕事は思っていたような簡単な作業では無かった。朝から作業を開始して夕刻になってもまだ半分も出来ていない。
工場から報告を受け、龍平は土田と池田の二人を連れ、八幡の工場に走った。明日中に福山の工場に全量を着けるのが約束だった。
工場に着いた龍平は、運送会社と相談し、翌朝トラック一台をチャーターして、その日の夕刻に福山に着けてもらうことで話を纏めた。夜をまたぐ混載出荷ではなく、割高のチャーター便に変更したのだ。

それから女子工員は全員七時で帰らせ、後は男子工員と本社から来た三人で作業を続けることにした。全量器具を取り付けることができたのは、運送会社が商品を引き取りに来る朝の半時間前だった。
龍平たちはその夜は遂に一睡もせず、単純作業を続け、運送経費を増加させ、貰える手間賃を削ってまで、矢吹との約束を履行した。以後、矢吹社長と龍平は無二の親友となった。
矢吹は以後、無理をしてでも、龍平から掛敷セットを買うように努めた。
ある日、出張する前に打ち合わせがしたいからと矢吹に朝の七時半に門真に来るように頼まれる。
会社に行ってみると、来ていたのは矢吹社長一人だったが、矢吹は会社の壁にとりつけた神棚の榊を替え、水を替えて、神棚に二拝二拍手一拝の後、三分くらい両手を合わせて祈っていた。
「矢吹社長、今何を祈っておられたのですか」と龍平に気がつかない矢吹にいきなり声をかけた。
「あ、野須川社長、すまんな、こんな朝早くに」
「矢吹社長、私は副社長で、社長じゃあありませんよ」
「何言っているんだ。代表取締役なんだから、あんたは社長に違いないのさ。一旦約束したら、何があろうと約束を守ってくれる立派な社長だよ。そうだ、儂が何を祈っているのか、聞かれたんだったな。龍平さんよ、中小企業ってのは、毎日何社起業され、毎日何社倒産しているのか、知っているかい。儂はね、我が社が倒産しませんように、なんて祈ったことはない。ただ今日も無事に朝が迎えられました、とそのお礼を神様に感謝申し上げているだけなんだ。君の会社では神棚は祀ってなにのかい」
「すみません、私の父がそういうことが大嫌いなもので」

「じゃあ、君の家にも神棚はないのかい」
「すみません。それについては考えてみたいと思います。確かに私も、何か目に見えない力に守護されていると感じることがありますから」
「じゃあ、君の家は先祖のお墓参りもしないのか」
「いいえ、お盆の時、必ず家族全員で父親の故郷の彦根に墓参りに行きますよ」
「なんだ、たった年に一回か。それでお墓は綺麗にしてあるんだろうな」
「実は、うちの彦根のお墓ですが、あんな状態で放置されていたら、家も会社もどんどん傾いて行きますよと私に忠告した方がいます」
「誰なのだ、そんな他人(ひと)の家のお墓に難癖付ける奴は」
「事実、祖父の墓は少し前屈みになっているのです。祖父は土葬でしたからね。それを指摘したのは、会社の大東の土地建物を買って下さった電設会社の社長と会長でした。なんでも他人から大切な不動産を購入するのだから、売り手のご先祖の了解をとっておきたいと、野須川家の墓の在所をこっそりと調べ、わざわざ大阪から彦根まで、私たちに内緒で墓参りに行かれたのだそうです。それで帰って来られてから、そっと私を呼んで、忠告下さったのです」
「それであんたの家のお墓は直したのかい」
「いいえ、まだそのままにしてあります。墓の施主は父親なので、私が勝手に直すこともできず、また私から父にそんなことは言えません」
「それでは俊平さんには、会社の倒産だけでは済まず、まだまだ不運が続くのかもしれないな」

第六章 誰もいなくなる その⑫に続く