序章(廃業の決断)その2


「丹比(たんぴ)地区の同意書、貰えない理由でも何かありますのか?」の問いに、野須川俊平の後ろにいた息子の龍平(四十六歳)の顔色が変わったのを下村は見逃さなかった。(やはり息子は正直者だ。ポーカーフエースは苦手と見える。会長はきっと何か隠しているに違いない。)
下村は俊平を無視するかのように通り抜け、龍平の傍らで立ち止まるなり、小声で囁いた。
「若社長、お父さんに来てもらうには及ばないでしょ、来週でも時間がある時に、若社長が一人で私の家に寄ってくれませんか? 二人で今後の策を練ろうじゃないですか、私だってなんとか自治会の役員連の心を翻らせてですな、早く一件落着!としたいのですよ!」
「分かりました。お電話した上でお伺いいたします。宜しくお願いいたします」
誰もが俊平を会長、息子の龍平を社長と呼ぶが、正しく言うなら俊平は代表取締役社長であり、龍平は同じ代表取締役であっても副社長なのである。今から八年前、龍平が父親から代表権を付与され、副社長に任じられた時から次第に周囲は、自分は動かず、大所高所から嘴だけ入れるようになった俊平を会長、本業の寝具製造業の責任者を勤める龍平を社長と呼ぶようになったのだ。
しかし代表取締役とは名ばかり、龍平には人事権も銀行交渉権も移譲されず、龍平は営業や生産の細かいことまで指示する創業者のワンマンな圧政に耐えなければならなかった。
(写真は筆者が父親の下で働いた会社の大阪市内の布団工場)


野須川龍平、昭和二十二年生まれの団塊の世代、昭和四十五年(一九七〇年)、関西の有名大学経営学部を卒業した。経営学部を選んだのは、学生時代から常に成長を続ける父の企業経営に憧れ、早く社会人になって父を助ける人間に、そして将来は父の後継経営者になりたいと思っていたからである。
大学卒業後は四大総合商社の一つである太平洋商事大阪本社に入社した。定年まで働こうとは思わなかった。商売の勉強ができたら直ちに父親の会社に転職するつもりだったのだ。
太平洋商事編み物本部の一員となって、最初の一年半は産地の企業に委託加工させる合繊の仮撚やトリコット生地の編立の生産管理を体験し、その後は営業課に転属してメリヤス肌着、ランジェリー、カットソー(軽衣料類)の生産管理とそれらの製品の地方量販店や地方問屋への販売に従事した。

龍平が太平洋商事に入社してそろそろ三年に成る頃、父の俊平がこう言った。
「帝都紡績のアクリル使いの総柄タフト毛布の一貫生産工場を泉州に造ることになった。これで売上は二倍になるぞ。どうだ、うちに来るか?」
その父の言葉こそ、龍平がずっと待っていた言葉だったのだ。
「行きます。いや、是非入れてください。お願いします」
これが一部上場の総合商社を辞めて現在の中小企業に転職した事情である。

龍平が入社する時期に合わせ、株式会社野須川寝具は帝都紡績からの出資も受け、資本金二億円の野須


川寝具産業株式会社となった。昭和四十八年春のことだ。二年後には毛布事業部も軌道に乗り、大阪本社の布団工場、泉州忠岡の毛布工場を合わせ、従業員は五百名を超える大所帯となった。
昭和五十一年、龍平は帝都紡績の重役の媒酌で、東京在住の一般女性と見合結婚した。往時、大阪の一二を争う大ホテルの大ホールを借り切り、帝都紡績の重役、幹部など業界関係者数百名を集めて盛大に二人の結婚披露宴が行われた。当日の業界紙の第一面を新郎新婦のケーキカットの写真が飾った。

寝具業界をひたすらよじ登り、寝具の製造業では帝都紡績の傘下に入り、一応の成功を収めた野須川俊平だったが、息子の結婚の翌年、布団事業と毛布事業に加え、三本目の大事業を開始した。息子龍平の為にと考えた新規事業だったのかもしれない。しかしそれこそが業界全体を一夜にして敵に回す事業だったのだ。
俊平は自分が造った寝具を消費者に直販する事業を思い立った。思い立ったと言うよりも、俊平社長を唆(そそのか)した人物がいたのだ。
往時、街中で次第によく見るようになった「ミツバチマーヤ」の看板を付け、布団をいっぱい積み込んだトヨタハイエース。団地などに歩合の営業マンを送って寝具の訪問販売をする新興の会社だった。
この「ミツバチマーヤ」の顧問となって同社を指導した、寝具業界のコンサル業を営む山崎こそ、同社の指導体験から得たノウハウを他社に売って一儲けを企み、そのターゲットとして野須川寝具産業を選んだ人物である。
(序章の3に続く)