第七章(終わりなき闇夜)その11

 

(現在の心斎橋付近。この交差点から御堂筋に沿って南の周防町まで、お洒落なブランドメーカーのショップが数多く並ぶ)

座る人の無い机ばかりが並ぶ、百平方メートルある事務所の中、僅か四名が、四ツ橋筋側の端にある俊平会長専用の応接ソファで、ミーテイングをする状態そのものが、会社の置かれている状況を示すものである。ここにいないのは、野須川俊平会長と、退職後も無給で会社に出ては、時間を潰している長村の二人だけなのだ。こんな状態になっても、まだ俊平は狭い部屋に移ろうとは言い出さない。
龍平は語り出す。
「支払枠から閉め出される請求書は、翌月回しにするという意味のことを会長は言われたが、もし僕たちで支払いを延ばす相手が選べなかったら、きっと自分が代わりに選ぶと言って、会長は立場の弱い企業を選ばれるだろう。声が大きい相手とか、事務所に集金にやって来るような相手を優先されるのではないだろうか」
「社長、私もそうだと思います」と池田に合わせ、他の二人も頷いた。
「僕たちが稼ぐ粗利益は、得意先からではなく、仕入先から頂いているのだ。しかも製品を作って、それを売った先から代金を回収し、仕入代金を支払するその日まで、既に一か月以上資金を貸してくれている訳だ。僕たちは、製品を買ってくれる得意先には感謝するけれど、それ以上に感謝すべきは、実は仕入先なのだよ」
「龍平さんの言う通りです」と加藤も話を合わせる。

「だから僕は、売上入金の一部を、会社には入れず、別の銀行にプールして、そこから会長がはねた先の支払をしようと思っている。具体的には、丁度会長が入院した四月から取引が始まった城陽寝装の入金をそれに充てることにする。城陽寝装は現金払いだし、社長の佐藤さんは、ハイエースに寝具を満載して、毎日、毎日、京都府南部地域の寝具小売店に卸して回るのに忙しく、八幡の工場に立ち寄るのが精一杯で、大阪にやって来る暇も無く、だから会長が佐藤さんと面談することで不審に思う可能性は皆無だからだ」
池田は困った顔をしながら、龍平に尋ねる。
「社長、その場合、会計処理はどうするのですか」
「一旦、普通に仕入、売上を立て、僕が抜いた入金分の売上を、そっくり売上計上から取り消すのだ。つまり城陽寝装には何も売っていないことになる。そしてその入金を使って、振り込みで幾つかの先の買掛金を支払った時に、池田君に銀行の振込表を預けるから、その仕入を全部取り消してほしいのだ。つまり毎月、同じ金額の売上と仕入が減額されることになる訳だ」
「なるほど、月次決算の売上総利益(粗利)には影響させない訳ですね」と池田が安心する。
「もうひとつ良いことは、城陽寝装は今後、毎月四百万円以上買ってくれると約束してくれているので、それだけ売上を除外したら、会長が言う、益率も上がるだろう。来月の加藤さんの売上の見通しはいくらですか」
「そうですね、九月ですから、一千万は約束します」
「すると僕が二千五百万を売上げるとして、粗利はどうなる」

「それくらいの売上なら、お二人合わせて、総経費の九百五十に届くのが精一杯かと」
「益率は、水野君、計算して」
水野京子は電卓を叩いて「二十七パー、アウトですね」と即答する。
「売上から、城陽寝装の四百万を差し引いたときの益率は、水野君」
「三十・六パー。合格です」と水野は笑った。
「社長に確認しますが、この経理処理なら、たとえ税務調査でバレても、脱税にはなりませんよね」と池田は笑う。
「残念だが、池田君、そうではないんだよ。法人税の脱税にはならないだけだ。それは当社が消費税を簡便法で納税すると申告しているからだ。簡便法で納税するなら、売上を一部でも除けば、立派な脱税行為になる。それにだ、会社の資金繰りや支払を決める権限は、同じ代表取締役でも、会長の方にあるのだから、それを越権して、もう一人の代表取締役が勝手に行ったら、会長はもう一人の代取の僕を、背任罪で訴えることもできるのだよ」
水野京子が真顔になって龍平に噛みつく。
「そりゃそうですよ。いくら良いアイデアでも、こんなことは犯罪だわ。私はそんなことはせず、社長から会長に、はっきり言うべきだと思います。会長がそういう方針なら、私たちは仕事ができません、辞めさせて下さい、と」
「会長にそんなことを言っても、それなら全員辞めろ!と言われるだけだよ、水野君」と龍平。
「社長、もしもそう言われたら、全員辞めたら良いじゃありませんか。そんな犯罪まがいなことまでしてする仕事ではないでしょ」

池田が顔色を変え、水野の口を封じにかかる。
「水野君、待ってくれ。君は何も知らないからそんなことが言えるのだ。社長にはね、簡単に放り出せない事情があるんだ。月商二千万円あった東京の壷井商店への売上が、昨年秋に突然無くなった時に、菊花組関係者の壷井から、借用書なしで二千万借りて、昨年の十一月と、十二月の仕入支払をされたのだ。龍平社長、あの二千万円の借金はどうなりました。借入先を大半変えられたのですよね」
「今月に入って、カード会社三社から僕個人にDMが送られて来て、異口同音二百万円貸したいと言ってきたんだ。それで全部借りることにした。それも壺井からの高利の借金を減らす為だ」
「それらの返済条件はどうなっているのです」と池田は龍平に尋ねる。
「毎月決まった日に、十万ずつ自動振替で返済が回って来るが、それで残高が減った分だけ、またカードで借りられる仕組み。利息は年十八パーセントだ」
「それで壺井の残はいくらになって、全体ではいくら残っているのですか」と池田。
「現在、壷井からの借入は、七百八十万にまで減った。ゴルフ会員権を質草に入れた町金からの借入残は三百三十万。中古自動車の徳山社長が貸してくれた自動車ローンの残高が百九十万。新たに増えたカードローンは、ビスタカード、JCCカード、バスターカード、それぞれ二百万、三社合わせて六百万だから、総合計は一千九百万だな」
池田の顔色が真っ青になった。「社長、月六パーの利息の借入が減ったのは一安心ですが、全体では、八か月も経って、たった百万円しか減っていない訳ですか。こんなペースなら、ゼロにするのに後何年かかるのでしょう」

「心配するな。残高が自動的に増える高利の壺井の借入さえ、ゼロにしてしまえば、後は減るのが早いと思う。それでもまだ三年以上はかかるだろうな」
「三年で完済できる訳ないでしょ」と加藤。
「そうだな、三年では無理か。もしかしたら五年か、六年は掛かるかもしれない。だから水野君、池田君が言ってくれたように、今この仕事を放り出す訳には行かないんだ。みんなをとんだことに巻き込んで、申し訳ないと思っている。税務署にバレても、会長にバレても、君たちは、僕に強要されて、仕方なくそんなことをしただけなのだ。僕が全ての責任をとる覚悟だから。仕入先のためだ。僕たちが、正常な商売人として、今後も生きる為なのだよ」
事務員の水野は、納得できない顔で抵抗する。
「冗談じゃありませんよ。社長はこれから五年も、六年も、実のお父様を騙し続けて行くとおっしゃるのですか。バレるとか、バレないではなく、そのことがお父様の、社長への信頼を、根底から裏切る行為でしょ」
池田はここでも割って入った。
「水野君、そう社長を責めないで。会社の創業者であり、実の父親でもある会長に、嘘を付くことで、一番辛いのは社長自身なんだ。しかしね、それではどうしたら良かったのだ。あの時、あの二千万円が無かったら、その時点で、僕たちの仕事は終わっていたんじゃないのか」
龍平は話を続けた。

「水野君、壺井が菊花組の関係者であっても、譬えとんでもない高利であっても、あの時点で二千万円をぽんと貸してくれたのは、有り難いことだったんだよ。しかもこのバブルの時代だからこそ、カード会社の方から二百万円借りてくれなどと言って来るんだ。だから僕たちは、何かに守られていると思うのだよ。そう考えるべきなんだ。譬え何年かかろうが、きっと残高をゼロに出来ると僕は信じている」
「まるで長い長いトンネルの中にいるようです。まだまだ出口は遠いようですが。もう日が暮れてしまいましたよ。今日のところはこの辺で終わりましょうか。龍平社長」
「池田君はうまく言うね。本当に長い、長い、真っ暗なトンネルの中を、これから五年も、六年も、手探りで歩かなければならないとは」
加藤も龍平に声をかける。
「龍平社長、私はずるいようですが、今日の話は何も聞かなかったことにして、お義父さんから何を聞かれても、何もしゃべらないことを約束します。ですが、あまりにも大きな負債ですな。龍平さんだから耐えられるのだろうが、他の人なら、完全にギブアップだ。頑張って下さいとしか言いようがない」
「加藤さん、僕だって心が折れそうです。しかしこれまで我が社に入社して、悔し涙で退社した何千名の社員の志を、代わりに果たす使命が、残された僕にあるのだと、自分に言い聞かせて歯を食いしばっているだけですよ」

第七章 終わりなき闇夜 その⑫ に続く