跋章(極楽を生きる) 「転業ー自分が変わればー最終回」

(黄昏の美原ロイヤルメモリアルパーク。左の建物は法要施設。遠くに見えるのは南海北野田駅前の高層ビル群)

昨年一月から160回に渡った連載自伝小説がやっと終わった。毎回読んで下さった方々、いいね!を押して下さった方々には、心から謝辞を述べたい。こんな私の半生がなにかお役に立つなら、たとえ反面教師であってもそれは大変嬉しいことだ。

私の歳は七十を超えたが、まさか私がそんなに長生き出来るとは思えないほど、幼いときは小児結核や腎臓炎の治療で、長く小学校を休まなければならない虚弱体質だったのだ。
自宅で療養していた私を、通いで診て下さっていたお医者さんが、私の両親に「とても成人式を迎えそうには見えないから、お子さんが欲しがるものは何でも買っておやりなさい」と小さな声でおっしゃるのを壁越しに聞いてしまった私はショックを受け、人生に絶望しかけていた。
病床の私が欲しがったのは、それは「本」だった。父は私の欲しがる「本」を次から次へと買って来てくれたものだ。
児童向けに平易な言葉で書き直された「本」ではあったが、今では古典になった世界の「文学」を、殆どこの時代に読んでしまった。「本」ほど、私を勇気づけ、夢を持たせ、励ましてくれたものはない。
幼い頃は死刑宣告が言い渡されたような生活だったから「生きているだけで丸儲け」と思い、度重なる苦労や危険を掻い潜りながら、その度にラッキーと喜んで生き長らえていたら、気がつくとこの歳になったという訳である。皆様もそうは思われないだろうか。人生、生きているだけで丸儲けである。

私は病気が治まって小学校に行けるようになっても、体育の授業は見学していろ、遠足などの行事に出ては成らない、と医者の忠告に従い、ただ大人しく学校に通っていた。
そんな私の生活を、これじゃあいけないと変えてくれたのが母だった。
母は私を近くのボーイスカウトに入団させ、一から身体を鍛え直そうとした。
父は夏休みには家族での日本アルプス登山を計画し、私に登山の喜びを教えた。
二人とも、私が健常な身体が持てるまでになるとは思わず、できる範囲でできたら良いだろうくらいの期待であったと思われる。
お蔭で公立の中学校に通う頃には、学友たちと一緒にソフトボールが出来るようになり、体育大会には学校の外を走る長距離走に出場するまでに私は体力を回復した。
健康をとりもどした私は、学業でも挑戦意欲が高まるようになり、徹夜での受験勉強ができるようになったお蔭で、県立の受験校を経て国立大学に進学した。
父親は往時中小企業家だったが、今とは違って授業料が殆ど無償に近かった国立大学でなければ、我が家の家計では息子を四年間大学に通わせるのは困難であったと思われる。少なくとも私自身がそう思って必死に受験勉強をした。
大学では体育会ワンダーフォーゲル部に入会し、隔日のトレーニングにも耐え、三年生になれば合宿の班を率いる山行リーダー会の一員にまでなれた。
大学を卒業後、私は東京大阪に二つの本社がある総合商社に入社し、三年後に父親が創業した寝具メーカーに転職し、直ちに役員のひとりとなった。

商社にいた時代、次の父親の会社に転職し役員になった時代、それは世間を上から目線で見ていた時代だったのかもしれない。しかし私の高慢な鼻はすぐへし折られることになった。それが三十代に体験した「訪問販売でのセールス体験」だ。
会ったこともない赤の他人の専業主婦に、突然インターホンで話しかけ、一瞬にして親しくなって家の中に入れてもらう技術を習得する体験は、高学歴、優れたキャリアと自惚れる自尊心を木っ端微塵に打ち砕いてしまった。
今まで上から目線で見ていた人々を、仰ぎ見るくらいに自分を置き換えなければ「飛び込みセールス」は成就しなかった。
セールス体験を通じて私の人間性を変えたのは、頭を下げて商売しなければならないことだけではない。プロのセールス集団と毎日同じ車輌に乗り、寝食を共にすることで、生まれて初めて誰にも頼らず自身の腕や力で生きる「玄人」と言われる人々と接触したことである。
生まれて初めて接触したという表現は違うかもしれない。往時の水商売の女性たちも「玄人さん」と言われる時代だ。素人の女性が今の様にアルバイト感覚で水商売に入るのは考えられない時代だった。けれども彼女たちは客との対応はあくまでも素人世界の流儀で行っていたのであるから、客である私が彼女たちをことさら「玄人」として意識する必要はなかったのだ。
「玄人」と交際したことでの私の意識改革は、会社が和議倒産を経て規模が縮小して行く過程で、父に代わって自分が商売人として独り立ちするには必要な条件だったかもしれないが、それ故に世間で「極道」と眉をしかめられる人々と平気で付き合い、商売関係にもなるという弊害も生むことになった。

私の半生で最も苦労した時代は、自分で寝具の製造卸をして工場を回した八年間だ。
羽毛布団や固綿敷布団の生産の受注先を開拓するのが私の仕事なら、その受注をとるのも私の仕事、その原材料を売ってくれる先を探すのも私の仕事、工場に受注した商品の作り方を指示するのも私の仕事、商品を納品したら請求書を発行して集金するのも私の仕事、集金したお金で給与や原材料の仕入代金を払うのも私の仕事だった。
一ヶ月が無事に終わっても、月がかわれば、又仕事はゼロから始めなければならない。
経営の何もかもが自由であったら、まだやりようがあったのかもしれない。
私には人事権がなかった。本社のスタッフや工場の労務者の数が多いと思っても、従業員を解雇する権限が与えられなかった。資金繰りを任せられても、資金調達の為に銀行折衝する権限は与えられなかった。人事を触ることも銀行からの借入も父は禁じた。「本業はお前に任せる」と言いながらも。
最初は「極道」の甘言に誘われ、事業資金を父親に内緒で借りたことから始まった。そのあまりの高利に驚いて「カード会社」や「消費者金融」から資金を調達し、「極道」からの借金は返済したものの、それ以後カード会社などの返済に苦しみながら、私は事業を必死で続けなければならなかった。
同時にそのような会社の代表者であり自分の親を裏切る私のやましい行為は、私と父親の二人の心を引き離して行くことになった。
私が国立大学の経営学部を目指すようになり、大商社におりながら、辞めて中小企業に転職したのも、幼い頃から企業家である父親の背中を憧れの目で見て育った私だったからで、いつしか憧れどころか、憎しみさえ抱くようになったのだ。


最も苦しい時代だったこの八年間、その後半に私が出会ったのが宗教団体「生長の家」の教えであり、私が貪るように読んだのが、生長の家の創始者、谷口雅春先生の著書「生命の実相」だった。その後、霊園事業への「転業」によって地獄のような苦境から脱したのは確かであるから、私の人生の転機と「生長の家」との出会いとの関係を語ることは、避けては通れないと思っている。
だがそれは「生長の家という宗教団体に救われた」と言うような単純な話ではない。
人生の苦境にあえぐ人がいたなら、「信仰」は薦めるだろうが、特定の「宗教団体」に入信するのを薦めるつもりでこの小説を書いたのでもない。
私が「宗教」に接触したのは、中学一年生の時だ。入団したボーイスカウト奈良第十団のスポンサーが、たまたまキリスト教改革派の教会だったので、日曜礼拝に通うのが義務づけられたからだ。
気がつけば、私の心の中に「神」が愛と善の象徴として存在するようになった。しかしそれとは逆にキリスト教会への興味は薄れて行った。日曜礼拝で聞いたカインとアベルの話に、私は執拗に拘り続けた。なぜ神はアベルの供え物は受け入れ、カインの供え物を拒絶したのか。供え物を受け入れるとは祈りを聞き届けることだと私は直感した。では神は祈っても、祈りを聞かないこともあるのかと疑問が膨らんだ。「神の見計らい」で説明しようとするキリスト教会には納得が行かなかった。私のキリスト教への関心は消えてしまった。
それから二十七年後、私は谷口雅春先生の「生命の実相」と出会い、ほぼ同時期にスタインベックの大河小説「エデンの東」を四部に分けて全編を放映したテレビドラマを見た。
スタインベックは雅春先生の九年後に生まれ、雅春先生はスタインベックの十七年後に昇天された。

奇しくも地球の裏側にほぼ同時期に生まれたこのお二人が、カインとアベルの物語の諭しにキリスト教徒でさえしっくり理解ができなかったことを、実は二千年前にキリストが既に説いて解決していたと気づかれた訳である。
雅春先生は生長の家の「大調和の神示」の中に触れられ、スタインベックはそれをテーマに「エデンの東」という大河小説を著した。要するにキリストが説いた通り、神が祈りを聞くには、周囲総てのものとの和解という条件があったのである。
このことはこの小説の後半のテーマにもなった。小説「エデンの東」のラストシーンになった如く、この小説でも私が父親と和解することで、私の切なる祈りが聞き届けられたという筋になっている。別段、私がそのように創作したのではなく、事実を淡々と書いただけである。
私が「生長の家」で学んだのは、和解すること、感謝することの大切さと同時に、「自分が変わらねば」問題は解決しないことだった。勿論その他にも多数ある。
目の前に問題があるのなら、それは自分の心の在り方そのものに問題があるのだと教えられた。
だから何か特定の宗教団体に入会しただけで問題が解決する訳ではない。
生まれた時のような素直な気持ちになって、神の説かれることに耳を傾けなければならない。しかしながら自分が変わるというのが、一番難しいことなのかもしれない。
私は三百六十度変わりなさいと言われた。百八十度変わって別人になるのではない。本来の自分、言うならば、生まれたままの自分に戻れば良いのかもしれない。
少なくとも本来の自分と言うからには、肉体の自分のことではない。肉体は日々移ろいで行く。

さて私が今になって最も苦しかった八年間を思い出しても、よく耐えて頑張ったと自分を褒めたりはしない。
それはそうだろう。小説でも何度も何度も登場したエピソードであるが、地獄の底であえぎながら私はどんなに多くの親切な人々に救われたことか。
申し訳ないことだが、そんな人々に何ひとつ報いてはいない。また別の人を今度は私がお助けできれば良いのだと私は思っている。
人間は皆一体の霊的存在なのだ。だから自然に生かし合って生きるのである。
では私の八年間は地獄ではなく、本当は極楽の世界だったのか。
正にその通りである。私は生まれてこの方、一度も地獄なんかにいたことは無いのだ。
幼いときから父親に愛されて育った。父親は死ぬまで私を愛し続けてくれた。私の母もそうである。
私が果報者なのは、それだけではない。めったと出会うことがない素晴らしい女性を妻にできたことを、私は一番神に感謝している。
そして文句の付けられない二人の娘を授かったことも神に感謝しなければならない。
自分の人生のシナリオも、作者の神様には、文句のつけようがない。
私たちは常に「極楽」を生きているのである。

自伝小説「転業ー自分が変われば-」完