第六章(誰もいなくなる) その4

(筆者が経営する羽曳野の霊園のバラ園。池田厚司氏撮影。)

列車内に沸き起こる歓声にふと我にかえる龍平。車窓から冠雪の富士がよく見える。
龍平は吉本専務の記憶から、和議申請直後の険悪だった帝都紡績との関係を思い出していく。
龍平は帝都紡績との関係修復には腐心したが、アクリル部とは最後まで犬猿の仲のままだった。だがエステル部だけは、現金引き換えの決済条件ではあったものの、取引をなんとか維持してくれた。
それにはエステル部の思惑があったようだ。往時、帝紡エステル部の中では、繊維に付けた樹脂を熱で溶かして繊維と繊維の結びつきを固めてしまう固綿用のポリエステル繊維の開発途上だった。

この固綿用エステル綿を製綿して乾燥機にかける試験ができるプラントを帝紡のテストの為に貸してくれる工場は、帝紡には野須川寝具以外に思いつかなかった。
だから野須川寝具の製造部門の責任者となった龍平には、アクリル部の様に冷たく当たることはできなかったという訳である。
製造部門の責任者となった龍平だが、正直言って、龍平は毛布の製造方法も、肌布団、コタツ布団の製造方法も全く知らなかった。
龍平は野須川寝具という寝具のメーカーに入っていながら、思えば会社の倒産を契機に製造部門に転任となるまでの八年間、経験した仕事は、問屋への卸販売、消費者相手の訪問販売、そして銀行折衝と決算業務だけだった。
和議申請の翌日から毎日、大阪地方裁判所が派遣してきた管財人への対応に追われ、八幡工場を構えないまま、日にちが過ぎて行った。
九月五日に中部日本信販から全国のカシオペア販売店が請求した前月の売上金を入金して、その中から全国の販売店に、従業員の給与、歩合を送金した。
九月十日には市内に会場を借りて、債権者を集め、倒産に至った事情の説明会を開催した。野須川俊平を非難する罵声と怒号の大荒れの集会だった。
会場の舞台にかぶり付く最前列の席はヤクザと思われる一団が占拠していた。但しこれは債権者側が送り込んだのではなく、俊平が舞台に立つ、自分や息子のボデイーガードとして依頼した元の寝装工場近所の運送屋の若い運転手たちが変装した姿で、ほんもののヤクザではなかった。

大阪鶴見組運送、この社長は昔は本当にヤクザで、過去には傷害事件を起こし、逮捕歴もあるが、俊平がこの男を工場の近所のよしみであり、扶養家族も多かったのを見かね、家族で運送会社を作らせ、野須川寝具専属の運送屋にしてやったのだ。だからこの運送会社の社長は、俊平を兄の様に慕っていた。
俊平の周りにストーカーのようにまとわりつくヤクザの様な竹中を、俊平に頼まれ大阪から姿を消させたのもこの運送屋の社長だった。俊平は手粗い真似はしてくれるなと釘をさしたが、心配には及びませんと、竹中の社宅を若い運転手に朝から晩まで見晴らせるという、いかにもヤクザにはヤクザらしい撃退方法を講じたのだった。
債権者集会は荒れに荒れ、収拾が付きそうになかったが、ある債権者の一社が挙手して立ち上がり「ここで和議申請が納得できないとなると、野須川さんは破産し、うちらは一銭も貰えなくなると言うこよですな」と言ってくれたお蔭で、債権者は一斉に黙ってしまい、進行役の龍平が審議打ち切りにして閉会を宣告することが出来た。
債権者からは味噌糟に言われても、俊平は動じず、毎日普段通り、会社に通勤した。そんな創業者の姿を見て、龍平を始め社員たちも会社の倒産にそう恥じることもなくなって行った。

九月十五日、龍平が学生時代を過ごした体育会ワンダーフォーゲル部の秋の大阪OB会が開催される日だった。龍平は同窓生なら野須川寝具の倒産を新聞で皆知っているだろうから、同窓会に顔を出すか、どうかためらったが、父親の平然さに背中を押されるように、大阪駅前第一ビル内にある大学同窓会館の会場へと向かった。


会社倒産などにめげず、元気でいる自分の顔を龍平は、昔の山仲間にも見せたいと思った。
だが龍平は歓迎されず、よく出て来れたものだとの驚きと非難の目を浴びることになった。
それでも龍平は努めて気にしていないように振る舞い、最後まで団欒を楽しもうとした。
すると一人の上級生が龍平を呼び止めて、小さな声で囁いた。
「野須川君。君の元気な顔を見て、我々は安心したけれど、本当は今日の様な集まりに、堂々と顔を出すのはどうだったのだろう。失礼だが、払ってもらえる筈の商売の掛け金が、これで殆ど貰えなくなった人が無数にいるのだろう。だったらそういう人たちの気持ちを察して、以後こういう集まりには遠慮した方が良いのではないだろうか」
こう言われて、龍平は自分が役員を務める会社の倒産と言う重い事実が、無数の人から財を奪う加害者になったという重い事実が、これから龍平の人生に重くのしかかって来るのだと改めて気づくのだった。事実龍平が、以後同窓会というような会合に顔を出すには、霊園事業に転業する十三年後のことである。
翌日、北海道カシオペアが、既に野須川寝具に振り出した商品代の手形は自力で決済するから、以後商品の購入は勘弁してくれ、と言って来た。売上で言えば、月商四千万円から五千万円が無くなる。しかし裁判所から和議申請以後の手形取引は禁じられていたから、北海道に現金で買えとも言えず、俊平も龍平も、黙って聞き逃すしかなかった。
その翌日、今度は京都山本から龍平に電話が入った。京都山本は和議を出した当日に、取引停止の申し出をして来ていた。

その京都山本が、龍平が生産には何の知識も無く、退職した井川専務から何の引継ぎも受けていないことを知ってか知らずか、今シーズンのコタツ布団の品番毎の発注残を確認し、総てを揃えて生産し、数日中に京都山本指定倉庫に入れて来いと指図して来たのだ。約定に一品番でも欠品が出たら、クレームを出すからそのつもりでと言って電話を切ってしまった。
龍平は慌てて、その足で八幡工場へと向かった。八幡工場で働く従業員の内、京都山本向けの肌布団、コタツ布団の生産に従事している従業員は、三日後の二十日で解雇されることが決まっていた。つまり京都山本のコタツ布団の発注残がいくらあるのかも龍平は知らないが、それを生産するにも、後三日しか無いのだ。
工場側は電話連絡で龍平が工場に来る用件を知っていたが、龍平の手伝いを申し出た男性の幹部は、土田一人だった。土田は龍平よりも少し年が若く、幹部社員ではありながら、井川とはそりがあわず、ずっと冷や飯を食っていた男だった。逆に井川に付いていた幹部社員は既に多くが辞めていた。
土田は「野須川常務、京都山本のコタツ布団上下の品番毎の発注残数は、私が整理しておきました。この表の通りです。大半が完全に納品を済ませていました。残るは二十品番程です。製綿用の綿も、コタツ敷用のウレタンシートも、表地も、裏地も、ヘリ地も、常務がこちらに向かっておられる間に在庫をチエックしておきました。大丈夫です。資材は全部揃っています。後三日もあれば全品番完成すると思います。ですから後は私が指図して、明日の早朝からやらせますから、常務は心配せず、このまま奈良にお帰りください」

「土田君と言ったかい。恥ずかしい話、僕はコタツ布団の作り方も知らないし、布団の加工指図書だって書けないんだ。だからもう退社時間だけど、僕は明日の朝までかかっても、コタツ掛布団、コタツ敷布団、肌布団、羽毛布団、敷パッドの作り方、それぞれの加工指図書の書き方を勉強したいんだ。だから君には本当に済まないが、僕の勉強に明日の朝まで付き合ってくれないかと思って。無理な注文かな、土田君」
「常務がその気なら、喜んで付き合います」
退社時刻が過ぎて、誰もいなくなった工場の中で、龍平は土田と二人きりで、それぞれの機械の動かし方を覚え、加工指図書を自分で書けるまで、生地や綿の持ち掛かり係数を頭にたたき込んだ。文字通り、一夜漬けだったが、龍平は一夜にして、野須川寝具が製造してきた品種の作り方をマスターした。
九月二十日、京都山本は龍平の仕事の完璧さに驚愕した。一枚の誤差も無く、僅か三日でこと細かな品番毎の注文残をきっちり納品して来るなどとは、予想もしていなかったからだ。
これが野須川寝具と京都山本の最後の取引となった。そしてこの日を以て、京都山本向けの生産に従事した従業員は全員解雇されることになった。

 

 

第五章 誰もいなくなる その⑤に続く