序章(廃業の決断)その4
野須川寝具産業が僅か一年でこのような急成長を成し遂げられたのは、一年前、取引銀行の一行だった「なみはや銀行」の山村頭取とたまたま俊平が懇意になったことから、一挙に同銀行が融資支援を増加させたことにある。なみはや銀行も、野須川俊平の事業を支援することで、旧財閥系都市銀行の三つ葉銀行グループ内にいる帝都紡績と接触したかったということもあるだろう。
カシオペア販社を全国に十社創った時点で、泉州忠岡の毛布工場の設備の追加に加え、カシオペアの全国六十店の開設資金などの設備投資が膨らみ、事実上自己手形であるカシオペア販社が野須川寝具に支払った商業手形の割引(商業手形を担保に決済期日まで融資すること)を加えると、年商百億円を目指して来た野須川寝具産業の負債は、なんと金融機関からの借入だけで優に五十億円を超えようとしていたのだ。銀行支援は限界に近づいていることは、俊平には分かっていた。
解決方法は株式の上場しかない。
俊平は滋賀県近江八幡の近江商業の出であったが、同じ近江商業の二年先輩に、京都で女性下着のメーカーを立ち上げ、女性下着のトップブランド企業として一部上場した人物がいた。俊平は彼を人生の目標に置き、同じ新時代の近江商人として、彼の後を追いたかったのである。
ところがその夢が成就するには、少なくとも京都山本から得る全売上を、カシオペア事業がカバーしなければならず、そのハードルの高さを、俊平は認識するしかなかった。
(写真は筆者の前の会社が昭和60年から平成13年まで事務所を置いた西区北堀江の現在の風景)
時を十五年後の平成五年の七月に戻そう。
堺東の公証人役場から俊平会長を車に乗せ、龍平は本社事務所がある大阪市西区の四つ橋筋沿いの雑居ビルに戻ってきた。
その間、いつものことだが、二人は一言も言葉を交わさなかった。龍平には父親と二人きりになる時間はとても辛く、苦しかった。
互いの不信が原因の親子の断絶は長く続いて来た。ビルのエレベーターから降りるなり、龍平はトイレに入って小用を足すと、洗面台の鏡に映る自分のやつれた顔を見ながら、
・・・そうだ、親父とこんな関係になったのは、あの日からだ・・・、もう十五年になるのか、・・・それにしても落ちぶれたものだ、あの頃は製販合わせ、従業員は千名以上いたというのに、それが今はたったの十数名か・・・
いつまで経っても、まったく解決の糸口が見つからない親子関係の亀裂だった。
十五年前の九月某日、東京銀座の京橋ビル、カシオペア南関東の本部会議室に、野須川寝具産業の俊平社長、財務担当専務、毛布事業担当専務、寝具事業担当専務、カシオペア販社統括部長、そして各販社の社長が集まり、カシオペア事業の第一年度が終わっての決算会議が開催された。
カシオペア販社十社と言っても、野須川寝具直営は、関西、南関東、北関東、中京、北陸、中国の六社のみ、他はフランチャイズ契約会社で、北海道、東北、東海、九州の三社である。だから明細書が付いた決算報告書を会議に提出したのは前者の六社のみ、フランチャイズ各社は売上と純利益を報告しただけだ。
大幅黒字は北海道と関西だけ、収支とんとんが南関東と九州、後は全社赤字であった。中でも大赤字の北陸販社はこの一期だけで閉鎖が報告され、承認された。
そして次期が再び赤字なら閉鎖の断を下すと宣告されたのは東北、東海、中国の三社である。
ここで財務担当専務が立ち上がり、野須川寝具産業が遂に念願の年商百億円を達成したことを発表した。拍手喝采の嵐を押しとどめ、彼は一言付け加えた。
「皆さん、ここでは社長さんばかりなので、この中では、つまりカシオペア事業部内では、野須川社長を野須川会長と呼ぶことにしませんか。」
再び拍手喝采の嵐となった。ところが肝心の野須川俊平は、俯いたまま一冊の決算報告書を見ているのだった。
・・・これは空気を読めなかった。ここはご子息の偉業を讃え、会長の機嫌をとらねば・・・彼は立ったまま、いきなり南関東販社の話題に変え、龍平の成績を持ち上げた。
販社の中で月商一億円に一番乗りだったこと、実際にセールスが出来て、いつでも標準ノルマ(月商百万円)を達成できる能力を持つのは、このメンバーでは龍平ただ一人だとか。
驚いたことに、それを黙って聴いていた俊平が急に顔を上げ、財務担当専務の言を遮って、睨み付けるような鋭い目で皆を見回した後、龍平に向かって大声を発したのだ。
「おい、南関東の売掛金はなぜこんなに多いんだ!」誰かがここはご子息の龍平をかばわねばと、
「会長、それはやはり月商一億円を達成されたのですから多いのは当たり前では」
「おまえに聴いてない、そんなことは百も承知で聞いているんだ。龍平、答えろ!」
(序章⑤に続く)